2015年10月10日土曜日

「黙想と瞑想」
和室にある掘りごたつを片付けてしまったらすっきりした。
ちょうど動線に掘りごたつがあったので、「気」を遮断してとても気になっていた。
ちょっとした障害物がなくなるだけで、
これだけ気の流れが変わってしまうということに今更ながら驚いた。
この和室の真ん中で、黙想するのが楽しみになった。

黙想と瞑想は違う。
自分が最初に意味も分からずに黙想したのは、小学校時代の柔道の時だ。
先生の「黙想!」という声とともに1分くらいの黙想に入る。
とにく稽古後の黙想は、興奮した自分が嘘のように落ち着いた気分になったのを良く覚えている。

瞑想は一点に意識をフォーカスする集中力のトレーニング的側面があるが、
黙想は、過去の自分や、いろんな事に思いを巡らすという行為も含まれる。

自分は黙想が好きだ。過去という実態のない事に想いを巡らすのもなかなか良いものだ。
もちろん思い出すのは楽しいことだけ。
悪いことを思い出しそうになったら、もぐらたたきのように、叩いてしまう。笑。

アメリカの精神科医が考えだした「心の映画館」というセラピーがある。
1970年代だったと思うが、それからは、様々な精神療法のひとつとしてポピュラーになった。

これは、自分が映画館でひとりで、銀幕を見ているとイメージするというもの。
そこには、自分の過去の様々な楽しいことや自慢できることが映しだされる。
それを目を閉じて、想像の中で楽しむのだ。

これは黙想に似ている。古今東西、癒やしの方法は似通っているということか。

感じる。ということは、言葉での理解を遥かに超えて潜在意識に沈潜する。
般若心経をどれだけ理屈で理解するより、
唱えた方が遥かにその真髄に触れることができる。

古くからの知恵は、理解することではなく、
感じることでその生命を保ってきたのだと思う。


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