2018年3月29日木曜日

「睡眠力」



人間、物理的、社会的に生きていくために、いろんな力や術が必要です。
生命力、処世術、人間力、生活力、経済力、などなど。
根本は生命力ですが、その生命力の元になるのは、睡眠力だと思います。

短時間睡眠が成功者に多いと、まことしやかに言われますが、
ナポレオンもエジソンも長時間の昼寝をして、トータルでしっかりと睡眠時間をとっていたことが分かっています。

逆に、短時間睡眠の人のその後を長期追跡すると、
早くは壮年期、老年にさしかかったころに突然死や大病で命を亡くしている方も多いです。

睡眠は、質が大事ですが、生活における肉体的精神的負荷に応じて、ある程度の睡眠時間は必要だと思います。

自分の場合は通常、仕事や移動だけの生活だと6~7時間。
10km走って、負荷の大きいトレーニングやったときには10時間は確保しないと、
割りとすぐに破綻が来ます。

自分はスポーツ心臓になって、その後も、心臓は大きいままなので、医者からは運動は止めないように言われています。
ですから、ヨガにプラスして、ランニングと倒立などの自重トレーニングは日課です。

最近ハードなトレーニングをやっていて6時間ほどしか睡眠時間をキープしていなかったので、本日、昼ころから、横になったら起きれなくなりました。
無理したら起きれますが、起きる気力がなかった。

で、仕事は午前中で終わったので、
午後はずっと寝て、先ほど6時頃目を覚ました。
大体5時間ほど、爆睡した計算になります。

今は、すこぶる元気です。
こういう身体の信号は、ヨガではなく、スポーツを長年やっていたので身についたのだと思います。動物のそれに近い。動物は疲れると、昼であろうと夜であろうと、安全な場所で爆睡します。

いわゆる、伝統的なヨーガの先生たちは短時間睡眠の実践者が多く、長生きの方は意外と少ないです。
そのへんは、ヨーガの経験よりは、動物を見習うべきだと思っています。
まあ、長生きが良いとは一概には、言えませんが、ちょっと短命すぎる方が多いです。

多分、現在の主流であるRYTヨガや、アシュタンガヨガの先生たちは、
20年~40年続けた方でも60歳後半くらい。
最古参の先生でもそのくらいの年令だと思います。
だから、年齢的に、まだまだ、現在やっていることが健康長寿につながるのかどうかは分からないと思いますが、

時間を惜しんで睡眠をとらないと、その後の貴重な人生を過ごす時間が短縮されることになると思います。



2018年3月26日月曜日

座法とムドラの建前



日本人のヨガの先生たちは原則論に厳しく、融通が効かず、

坐法はこうである。

このようなときに、ムドラは、このようにする。

ということを、ティーチャーやグルから教えられたとおり主張する方が多いです。

しかし、実際は坐法もムドラもかなり柔軟性を持って、基本、自分がリラックスする方法でやりなさい。

とほとんどのグルは述べています。

しかし、おそらく、どれが正しいのですか?

という質問があるのだと思います。

どれが正しいのか知らないと不安だという

常に正解を求める偏差値教育の悪影響なのかも知れません。



この動画もそうで、ゾクチェンを行うときの座法について、

インタビュアーが尋ねていますが、

僧は、一応、原則として「蓮華座」。

と答えていますが、



その後、

「あぐらでも構いません」

と付け加えています。



実際は、これが通常の教えであり、方法です。



私は子供の頃から、教会やお寺でキリスト教と仏教の祈りを見てきましたが、祈りのときの両手の置き方(ムドラ)

は様々でした。

原則はありません。



Youtubeでインドやチベット、タイなどのお坊さんやヨギの祈りの時の坐法やムドラを見ると分かります。



みな思い思いです。



坐法やムドラも大事ですが、それに極端に拘るより、私は信仰心の方が大事なことだと思います。



一心に祈るということでしょうか。








2018年3月22日木曜日

「寝る前の瞑想」

いつも、この和室で朝、晩、二回、それぞれ20〜30分瞑想するのが日課になっています。
家には雨戸があるので締め切って、暗幕を垂らすと、部屋を全暗黒にすることもできます。海岸沿いの田舎なので、夜は静寂に包まれ、その点恵まれていると思います。

ゾクチェンの暗闇凝視の瞑想のときには、この部屋を全暗黒にします。

普段は、この写真のような低い光、行灯のようなライティングです。天井からの光は瞑想には不向きだと思います。特に蛍光灯はNG。蛍光灯は振動を発するからです。これは、静かに瞑想に入ったときに結構雑音のような振動として頭に響くからです。

私のように年齢を重ねると、睡眠時間が短い、夜中に目が覚めて眠れない。と言った悩みを耳にしますが、寝る前の瞑想は、身体を良く動かして汗をかくのと同様、安眠にとって、とても効果的だと思います。

私は、まず、その日に自分に生じた悪い感情や、嫌な思いなどを、瞑想の中でどんどん吐き出してしまい。つぎに、そこから、ぱっと離れるようにします。

すると、それら悪い感情が再び襲ってきますが、そこが正念場。
襲って来た瞬間に、さっと、躱(かわ)して、消してしまいます。
この消し方は十人十色。

真言密教の阿字観のように、梵字を想像のイメージとして凝視したり、頭の中でマントラを唱えたり。
そのときによって、自分に合うやり方でやっています。

すると、意識はしっかりとした状態で「空」(くう)になります。
その「空」の状態をいかに持続させるか、それには瞑想を続けるしかないと思います。

よく、寝床に入ってから横になったまま、いろいろと思索にふける方がいますが、人間の脳は横になった状態で物事を考えると、メンタルに悪い影響を与えることが分かっています。

大体、そのようなときには、嫌なことや、不安に感じていることを思い浮かべるので、悪影響は、倍加すると思います。

良いこと、楽しいことを思い浮かべながら寝ると良いと云いますが、

私は、それでも、横になってからは、考え事や思索はしない方が良いと思います。これは自分の経験から来るもので、尾を引いて安眠の障害になることが大きいからです。

「空」になった状態で、身体が沈み込むような感じで意識を失う(寝付く)。

これこそ、瞑想の最も大きなご利益のひとつだと思っています。







2018年3月18日日曜日

「強風下の練習」

強風下の倒立 from idehiroyuki on Vimeo.

Instagramで、#ハンドスタンド というタグで倒立の写真や動画が大盛況です。

アップしているのは、ほとんどヨガの女性たち。
よく観てみると、ヨガ教室で、最初から積極的に倒立(ハンドスタンド)を教えているところもあるようです。

みなさん悪戦苦闘していますが、徐々に確実にできるようになっているのが凄い。

以前にも書きましたが、ハンドスタンドは、ヨガでも体操でも、基本のキホンで、最初にやった方が良いテクニックです。
後々、アーサナの習得や、体幹の安定に大いに寄与します。

私もハンドスタンドを日課としていますが、
ずっと続けていると、練習がマンネリ化します。

先日、海岸は風速8m、時々突風のあいにくの天気。
立っていても意識していないと、身体が持って行かれそうになる風でした。

以前、台風一過の風速10mで倒立練習したことがありますが、今回はそれ以来。

向かい風だと、足が押し戻されて、なかなか倒立まで持っていけません。

で、追い風でトライしましたが、
こんどは、足が勢い良く押され、静止できないので、
押された分、歩行することになり、
風が急に止むと、バランスを崩したりで、
前進後退の繰り返し。

あまりおすすめできる練習ではありませんが、
バランス感覚を鍛えるというよりは、
反射神経を鋭くする練習。
という性格が強いと思います。

私のように、著しく、運動能力や反射神経が衰えてくる年齢の人間にとっては、
効果的な練習だと思いました。





2018年3月14日水曜日

「片足立ちポーズ」

片足立ちポーズ from idehiroyuki on Vimeo.
ヨガには、片足立ちのポーズがいくつかありますが、
どのポーズも、インナーマッスル、腹筋を効果的に鍛えるには効果的だと思います。

不安定な中でバランスをキープするという感覚が、
普段使っていない部位を効果的に使うことに繋がります。

腕や脚の筋力というのは、それぞれ独立したものではなく、
体幹からつながって動いています。

体幹の延長です。

ですから、体幹を抜きに腕や脚を鍛えても、実際の動きには効果的ではなく、バランス良く、繋がっていて初めて大きな力となります。

本日は朝から暖かかったので、
早い時間から海岸でヨガをやったのですが、
しっかりと片足立ちのポーズをやったあとに、
倒立、倒立歩行を行ったら、
とても気分良くこなすことができました。

普段は目線は、写真とは逆の水平線に向けています。
無限遠に焦点を定めて、片足でバランスをとる。
独特の感覚ですが、
インナーだけでなく、身体全体を活性化させてくれます。

普段は片足それぞれ二回ずつ。
約30秒キープしています。

2018年3月11日日曜日

「このキャラが愛される理由」


その説教の数々も素晴らしいですが、
やはりなんと言っても、このキャラがみなから愛される所以だと思います。

上は、ブッダガヤを訪問したときのダライ・ラマ14世猊下。周りは警護のインド軍の兵士たち。

下は、ヨガのB.K.Sアイアンガー師とハグする猊下。



「私はだたの普通の人間だ」

というのは猊下の言葉ですが、全くそのとおり。

麻原彰晃にころりと騙されるようなその人の良さが、
益々猊下のファンを増やしていきます。

輪廻転生制度に疑問を呈し、やめるべきだとコメントしたり、鳥葬を、批判したり、
結構、パンクな革命家なのかも知れません。

しかし、中国がチベットに侵攻して、併合しなかったら、
チベット仏教はほとんどチベットから外には出なかったと言われています。

ダライ・ラマ猊下も、
中国の併合がなかったら、チベット仏教はポタラ宮の中から外には出ずに、私はこれほど、世界中で名前を知られる存在にはならなかっただろう。

とおっしゃっていました。
猊下はすでに、インドで過ごされている時間の方が長くなり、自らを、インド人に近いとおっしゃっています。

インド仏教がインド国内で滅ぼされて、チベットに移り、それが、またインドに戻ってきたということを考えると、大きな運命と、因果を感じます。




2018年3月7日水曜日

「変わる死生観」

先日、日本で、生命維持装置によって延命されるよりは、自然死を望むひとが急激に増えているという記事を目にしました。
その記事に触発されて、
たまたまチベット仏教の事を調べていたので、チベットにおける死生観の一側面を現していると言われる「鳥葬」についても調べてみました。
鳥葬は、チベットにおいては今なお行われている遺体の処理方法です。
遺体をナタで切り刻んでハゲワシに食べさせる遺体処理方法です。
実はチベット仏教においては遺体はただの抜け殻です。
これはインドにおいても同じ考え方です。
ヒンドゥー教でも仏教でも同じです。
ですから、インドには、イスラム教徒を除いて、お墓がありません。

魂が抜けた物体は、ゴミ同然。
その考え方は諸行無常の仏教の死生観そのものだと思います。
その点、日本の仏教的考え方、遺体を仏様と言って拝むような考え方は異質だと思います。

以前から興味があって、鳥葬の写真を数多く見てきた私は慣れていて平気ですが、所謂文明国の方たちには、ショッキングなビジュアルなので、ここでは省略しますが、実は、死生観の反映であると考えられていた鳥葬が、そうではなかったと知ることができました。
海がないチベットにおいて、遺体の処理方法としては、土葬、火葬がありますが、土葬は、墓地から地下水脈や川に流れる汚水が疫病の原因になっていたそうです。これは、私が仕事で行ったイングランドやオーストリアでも同じした。そういう話を聞くことができました。
多くの人が亡くなり、
19世紀まで問題になっていたそうです。
だから、チベットでも、土葬は生きている人の安全面からも中止された。

火葬ですが、チベットは高地にあって、森林がほとんどない。

ということは木材は貴重品。だから火葬に使われる薪はなかなか入手できない。
薪を使って火葬されるのは、高僧に限られていたとか。

だから、残されたのは「鳥葬」なんだそうです。

ただ、イヌイットの社会で、長生きしすぎて、家族の負担になった老人が、進んでシロクマのエサになったのと同様、鳥葬も、生前、動物の命を頂戴して生きていた人が、その骸を動物に捧げるという意味もあるそうです。

そういう意味では、最近まで文明国で行われていた水葬もそれに近いものがあると思います。

水葬では遺体は魚のエサになる。

私は、遺骸は魂の抜け殻、ただの物体だと思います。

その最も有用な活用方法は、鳥葬や水葬で、動物のエサになり、彼らの生命維持に貢献することだと思うようになりました。

2018年3月6日火曜日

「高野豆腐のお導き」?


先日夕方、高野豆腐を煮ていると、玄関のチャイムが鳴り、
「どなたですか?」

という私の問に答えた女性の声がよく聴き取れませんでした。

もう一度聞くのも面倒だったので玄関を開けると、
そこに、いたのは、久々の「エホバの証人」勧誘の女性二人組。
毎度のことで、その雰囲気ですぐに分かりました。

先輩格と思しき女性は、開口一番、
「いい香りですね」。

私も反射的に
「高野豆腐煮ているんですよ。いい香りでしょう?」
と応えると、ちょっと和んだ雰囲気になりました。
と、
先輩格は、気を取り直したように、
布教の決まり文句を並べながら聖書の話を始めました。

私は、きりの良いところで、
「私もカトリックの洗礼を受けているんですよ。うちは父方が隠れキリシタンで、母方は浄土真宗、父方の実家は、仏壇の裏にロザリオが置いてあるような環境でね。仏陀もジーザスも私にとっては、同じ先生。」

と話を始めると、先輩格は布教の話を忘れて、ポカーンとなりました。
キリストも仏陀も預言者。神と呼ばれる自然の摂理、天の運行は、たったひとつ、それらを分かりやすく説明してくれたのがモーゼであり、キリストであり、仏陀なんです。
と、私は高野豆腐の香りが充満する玄関でとくとくと話を続けました。

すると、先輩格も、後輩も、なんとなく納得したようで、
ありがたいお話をありがとうございました。
と、布教のことは忘れて、平和な表情に包まれて去って行きました。

これで何度目になるのだろう?
「エホバの証人」と「ものみの塔」の布教のおばさんに説教をしたのは。いつも同じような話をしているので、覚えていませんが、結構な回数になると思います。

おばさんたちが、自分たちが信じていることで幸せだったら、こちらとしてもとやかく言う筋合いの話ではありませんが、彼女らが単純に信じている聖書の解釈は、意外と脆弱。聖書史的、歴史学的なつっこみ方をすると、驚いたり、不安になるところを何度も見ています。

ですから、少しでも、彼女らの今後のためにと思っていつも説教をしています。

と言っている自分も、なんとなく、自分に説教しているようで、襟を正すことになります。

宗教とは自分の外の世界の事であって、最も大事なのは、自分の内側の平和。

本音は自分の内側、建前は外側。

教義は他の宗派や宗教との差別化のための方便であって、自分の内側とは関係はありません。

ですから、宗教がうまく生活に根付いているところの人達は本音と建前をうまく使い分けます。イタリア人、メキシコ人、インド人を見れば分かります。それが下手な代表が日本人。真面目に原理主義的になってしまいます。

精神的な世界を「勉強しよう」、「理屈で分かろう」とするからです。

どこを調べても、回答がない事だらけです。
世の中のほとんどのことは「分らない」世界。

それらの辻褄をあわせるためにも、本音と建前を使い分けることは大事です。

本日もおばさんたちに説教したことで、いろいろと考察することになりました。人に教えるということは自分に教えること。ヨーガの先生でも、そう言う方は多いです。
そう言えば、高野豆腐。高野山が起源。
仏陀がおばさんたちを導いたのかも。などと妄想に耽っています。

2018年3月3日土曜日

「様々な学び」

倒立歩行:足を揃える from idehiroyuki on Vimeo.
筋トレと、バランス感覚、調整能力を鍛えるための練習を兼ねて倒立系を練習していますが、
その中でも最も調整能力を鍛えてくれる倒立歩行。
理論はほとんどない、身体の反応だけの世界です。

歩いている時は自分はどんなポーズで、どんなバランスのとり方をしているのか想像がつかないのですが、動画にすると良くわかります。

足で歩いているときには、手を振っています。
手を振ることで、バランスをキープしています。
もし、手を振らなかったら、結構ギクシャクしたバランスの悪い歩き方になると思います。

倒立歩行も、大体、足は前後左右に開いて、片足か両足を曲げて振るようにして歩くのが普通です。しかし、サーカスや体操などで、様々な次の技につなげたりするには、
できるだけ足を広げず、動きも大きくならないようにします。

3月に入って、足を閉じて、振らないようにする練習を始めましたが、これが、ちょっと形容し難いやっかいさ。

ただ、足を広げないようにすると、左右へのバランスの崩れがなくなるので、ターンがとても自然になる。
なるほどな。閉じて歩く練習をやらされる訳だと、納得しました。

まずは、綺麗な静止倒立のまま、しっかりと歩行できるようにすることを目標にしました。こういう練習は、スタートの目線の位置。身体の重心の位置を常に感じること、意識の置き所など様々な学びがあります。





2018年3月1日木曜日

「ヨーガ修行中の仏陀」


昨晩、我が家の石仏とその由来についてInstagramにアップしたら、世界中からいろんなコメントを頂き、その中に、中国人女性のコメントがありました。

彼女は弁護士をやめて、世界中を旅して写真を撮っているようで、必ず私のアップした写真を見てくれてコメントも時々くれます。

その彼女が、多分繁体字、簡体字が混在したものだと思いますが、中国文化圏で一般的な般若心経を送ってくれました(写真)。


私は日本仏教の漢語とパーリ語・サンスクリット語の般若心経は全て暗記しているので、繁体字のものでも、象形と発声ですぐに分かります。

しかし、これを見ていると、自分は漢字文化の人間だなと感慨深くなります。
どこか、遺伝子に訴えるような文字の趣。
ちょっと感動してしまいました。



我が家の石仏は観自在菩薩という、山上でヨーガの修行をしている仏陀が弟子に般若心経を説いているところのイメージです。約200年前に中国の西域で掘られた石仏です。100年前に中国に住んでいた祖父の遺品です。

ヨーガは仏教においてもヒンドゥ教同様、修行のひとつとして重要な地位を占めています。特にチベット仏教においてはそうです。
ですから、ヨーガは紛れもなく宗教です(ヨーガを欧米の体操文化と結びつけ宗教からうまく切り離したのがクリシュナマチャリア師とその弟子です。ですからその後のヨーガはヨガと呼ばれ、古来のヨーガとは繋がりはなく、区別されています)。

仏陀は、ヒンドゥー教ではビシュヌ神の化身のひとつだとも言われています。
般若心経はサンスクリット語のオリジナルを玄奘が漢訳したとなっていますが、実は、オリジナルは漢語で、それをサンスクリット語に翻訳したものだという説もあります。
というのも、般若心経のサンスクリット原典は未だに発見されていないからです。
その玄奘が漢訳した、般若心経に最も近いのがこの写真にある般若心経かも知れません。
シンガポールに住む中国人女性や欧米の仏教徒からも反応がありました。
SNSは、こういうところが面白いし、凄い。
バーチャルなSNSの世界ですが、その向こう側には、リアルな人間の生活と信仰があります。