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ハタヨガ歴41年、戦後日本のヨガの黎明期から日課としてヨガを続けています。幼少期から柔道、体操、水泳競技等に親しんで、競技生活の補助としても瞑想やプラナヤマを活用してきました。最近は、筋トレや精神修行を兼ねて、倒立系、アームバランス系のアーサナを中心にトレーニングしているヴィーガンです。
2015年10月12日月曜日
30歳の頃にヨーガの先生から「井手さんはヨーガに深入りしない方が良い」
と言われたことがある。
その先生はお父様もヨーガの先生で、幼少の頃からヨーガに接していらした方だったので、私はちょっと聞き入ってしまった。
私はプロのフォトグラファーになって約30年仕事をしているが、
仕事は、国内外のメジャーな雑誌書籍が多かった。
どちらかというと、作家的なフォトグラファーだと思う。
先生がおっしゃるには、表現することを仕事にしている人がヨーガの精神世界に深入りすると、ものに執着したり、拘ることができなくなって、障害になることがある。
ということだった。
表現する仕事というのは、とにかくエゴと執着の塊になることがほとんどだからだ。
ちょうどその頃NHKの番組で、座禅を始めてから作品が創れなくなった陶芸家のコメントを聞くことができた。
私はピンときたので、それ以来ヨーガは、自分の関わっている競技の補助とフィジカルのためにだけ行うと決めた。
結局それが良かったと思っている。
仕事の一線を退いた50歳ころから、本格的に精神的な意味でもヨーガに関わり始めたが、拘るということや、執着するということが具体的にどういうことか、経験が豊富だったので、それらと上手く付き合い、時には自分を開放することが分かるようになったと思う。
芸術家の中にはヨーガを実践している方も多い。しかし、多くの場合、自分のキャリアの頂点から下山途中の方が多い。
山を下るときというのは、景色が良く見えるものだ。
お釈迦様も聖フランチェスコも裕福な家の出身で、ありとあらゆる贅沢を味わうところから出発した。執着や拘りを経験しないと、それがどういう性格のものか分からないはずだ。経験していないと、それはただの想像の世界になってしまう。
ヨーガをやっていて自分が開放されたと思い込むのは危険だと思う。
分かったつもりは危ない。
聖書や経典に書かれていることは、危機的状況を経験したときに初めて分かることが多い。
そこを乗り越えたときに意味が分かり、認識となる。
乗り越えるのは自分自身だと思う。
photo(c)Hiroyuki Ide
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