2016年11月30日水曜日

「ヴィーガンとは?」

この質問をよく友人たちから受けます。
結構、様々な形態があって簡単には説明できませんが、物理的に言うと、
ヴィーガンは、野菜、ナッツ、果物、穀類だけで生きている人たちです。
ベジタリアンは、これ+乳製品を摂取しています。
しかし、最も大きな違いは、ethical(倫理的)な側面。
ヴィーガンの多くは、ethical veganです。

つまり、ヒンズー教徒や仏教徒と同じで、あらゆる生き物への殺生と暴力を否定するという側面。
そして、もうひとつが環境問題です。
衛星写真でブラジル・アマゾンの熱帯雨林を見ると、肉眼ではっきりと広範囲に渡って伐採され焼かれているのが分かります。
アマゾンの熱帯雨林は、地球に酸素を供給するもっとも大きな供給源のひとつです。

この伐採の目的、それは、畜産です。牧畜用、牧畜のための穀物作付け用の土地になるのです。

そして、畜産、特に牛は大量の穀物を食べるので、世界中の穀物のかなりの割合は家畜用として消費されています。
それを、もし、人間用に、いくらか回すと、数値上、世界の飢餓人口はなくなることになります。

それほど、家畜の穀物消費量はすさまじいものです。
ですから、肉食を減らすということは、大きく地球環境を改善するということに繋がるという考え方です。

そして、家畜の育て方。
現在、鶏も豚も牛も、生まれてから、一度も太陽を見ない状態で育てられている個体がほとんどです。
厩舎に詰め込まれ、ストレスと、病気にならないための抗生物質、成長ホルモン剤で汚染されきっています。

ご存知のように最近、また鳥インフルエンザが発生しました。
抗生物質は細菌にしか効きません、鳥インフルエンザはウィルスなのでお手上げです。細菌とウィルスは違います。ウィルスは人間や動物の細胞の中に入り込んで半ば寄生している状態なので、薬がまったく効かずお手上げで、感染がおさまるのを待つしかないのです。

何十万羽という大量飼育、それもぎゅうぎゅうに押し込められているので、ウィルスは燎原の火のように広まります。

その繰り返しで、そのウィルスは、人間にも毒性のある型に変質することがあります。もともと鳥インフルエンザウィルスは人間にも感染する機能がありますが、そこにただ、鍵がかかっているだけです。
その鍵がはずれて、何かの影響で人間にも感染した。それが中国で多くの死者がでた例です。

将来、悪性の鳥インフルエンザはエボラウィルス熱に匹敵するものになるだろうと予想されています。


実は、アメリカの畜産農家の経営者にベジタリアンが増えています。
利益を出すために、仕方なくやっている大規模飼育方法で育てた家畜の肉が、どういうことになっているのか、一番知っているからです。
「食べる気が失せる」
とある牧場主は言っています。

和牛はその点、良心的な飼育方法ですが、
やはり、霜降り等、脂肪を増やすため、良い餌を与えられすぎ、運動不足なので、
糖尿病などの成人病になり、目が見えない個体も増えています。
Googleで「和牛、目が見えない」で検索してみてください。いろいろと出てきます。
テレビでもレポートされたことがあります。

これら、倫理的問題、環境問題と健康問題、を考えて肉食、乳製品を摂らないというのがヴィーガンの考え方です。

そして、ヴィーガンは、悪名高いシーシェパードのような過激な活動家から、
健康に良いし、ヴィーガン料理をいろいろ考えるのが面白い、みたいな、エンジョイ型の穏健派まで様々です。

私の場合は、主に、健康とヨーガをやっていて自然にそうなったという、ゆるいヴィーガンだと思っています。

これは私見ですが、私はInstagramを通じて多くの欧米中南米のヴィーガンと繋がりがありますが、彼ら、彼女らも、ある時期までは肉食をしていたはずです。

そして、もともと健康的で身体を鍛えるのが好きなような活動的な人が多いので、
ヴィーガンになるまでに、肉食で頑強な身体を作り込んでいる。
という感じがします。

私が、Instagramで見る限り、男女ともヴィーガンは、一般の日本人とは比較にならないほど素晴らしいガタイをしています。
たまたま、流行に乗ってヴィーガンになってみたが、想像以上にタフになり、持久力もついて、そのまま続けている。
という方が多いです。
なにより、肥満の原因は、動物性脂肪です。炭水化物が目の敵にされていますが、
一番は、動物性脂肪です。これは事実です。

ですから、ダイエットという側面からも時流に乗ったのだと思います。

私のニューヨーク時代の知人で、当時フィルム現像のラボで働いていた黒人がいました。
彼は、苦労人で、南部の貧農の出身で、都会に出てくるまで、豆と芋ばかりで重労働に明け暮れていたと話してくれましたが、
190cm、110kgのガタイは、筋肉の塊でした。
彼は、成人しても肉は合わず、そのままベジタリアンになっていました。
しっかりとした腸内環境と、一日が終わると爆睡するほどの労働や運動を続けていると、
人間は菜食でも屈強になります。

ですから、私はその時に、動物性であろうと植物性であろうと、
最終的に筋肉を作るのはアミノ酸で、
彼がよく食べていたバタービーンやガルバンゾービーンは、肉と変わらないタンパク源だったのだ。
と気が付きました。

ステーキの肉を見ると、力がつきそうな感じがする。
これは、ただのイメージでプロパガンダの影響です。

そういうからくりに気がついた人も、多くはベジタリアンになっています。

ただ、問題なのは、日本はベジタリアンのインフラがほとんどありません。
それに、肝心な農作物や果物の種類が少なく、重要なタンパク源になりそうなのは、大豆しかない状態なので、
日本でのベジタリアン、ヴィーガン生活は初心者にはきついと思います。
ただ、日本には精進料理を中心とする伝統食のレシピが伝わっているので、
それが救いです。
そういう料理を楽しみながら作れる人でないとつらいと思います。

2016年11月29日火曜日

「分からないことがあるということ」


例えば、現在生きている日本人の場合、
生まれてから、義務教育を経て高校大学に進学して就職という人生を送る人が多いと思います。
義務教育を受ける過程で、テストや入試があって、それをパスするための勉強をするわけですが、
それは、単にテストや入試のためのもので、必ず「正解」というものがあり、
その正解を求める疑問に答える資料なり、何かがある。ということを大前提としています。

それは、ネット社会になって加速して、潜在意識的に答えは必ずある。
検索すればどこかにある。
という錯覚を持つ人が増えてきたと思います。

しかし、私は、基本的に、どんなことでも、最終的に
「良く分からない」
という結論に達します。なんでも分からないことだらけです。

聖書はいろんな事を教えてくれると言いますが、
もう、何十年も、旧約聖書、新約聖書を読んでいますが、
謎だらけで、よく分かりません。

黙示録は何を語っているのか?
なんて質問されると、なんと言って良いか分かりません。
しかし、黙示録の、ある一節について「どう思うか」
と言われれば、自分なりの説を展開することはできます。

先日、久々にエホバの証人の勧誘のおばさんが、二人やってきました。

なぜか、モルモン教もエホバの証人も布教は二人です。笑。
そして、私がネイティブのカトリックだと分かると、
黙示録についての質問をしてきました。

私には、大体、その質問に対して答えが用意してあるのは、分かったし、容易に想像がついたので、
全く、違うベクトルで見解を述べました。

つまり、外界における地獄思想は、人間の内面の暗喩であるということ。
旧約聖書も新約聖書も、そういう比喩や暗喩の集合体であることを具体的、歴史的な例をあげて、いろいろ教えてあげました。

しかし、それらに関しては、歴史的に様々な見解があって、宗教会議で揉めたりして、見解の違いがあり、良く分からない事だらけだと、述べました。

すると、おばさんたち、全く用意した答えや、説教とは別の世界に自分らが置かれたわけです。
そして、もし、自分たちが、エホバの証人の反論マニュアルと違う世界におかれたらどうするのか?
なんて考えも及ばなかったのだと思います。
案の定、どうやって返したら良いのか分からないで、ポカーンとしてずっと私の話しを聞いていました。

何事にも正解があり、答えがひとつだと思い込まされた人間は脆いと思います。
どこかに正解がある。そして、その正解はどこにあるのか?と安易に人に尋ねる人は、永遠に「考える」ということができないと思っています。

正解に慣らされて世の中に出ると、その正解が脆くも崩れた場合にはパニックになります。
反面、正解なんてない。自分には分からないことだらけだ。分からないということが当たり前の世の中だ。
と思っている人間は、考え、推論して、タフになっていきます。そして、なにより、楽です。

チベット仏教の仏僧たちは、若い頃、延々と、仏教の教えに対する見解を討論する、教義問答という修行を行います。

一対一で教義に対する見解をガチで討論し、相手を論破していきます。しかし、結論はつかず、つまり正解はありません。

フランスの大学入試資格試験で有名なバカロレア。
この中の論文テストでは、正解のない質問に自分の見解をいかに論理的に展開できるか?が試されます。

このチベット仏教の教義問答の一例とバカロレアのある解答論文を見たら、
論理の展開がそっくりでした。

理性崇拝のフランス人と、仏僧が同じ論理展開をしている。
というのが、とても新鮮でしたし、ある意味納得できることでした。
そして、両方とも、
正解はない。
分からないということもある。
ということがよく分かっているのだと思いました。

分からないことがある。と放棄するのではなく、
分かろうといろいろと思考を巡らし、論理を展開することは大事だと思います。

そうすると、分からない。ということの不安は払拭されると思います。
分からない。ということが論理的に分かることが多いからです。

宗教の世界も、現在のフランスのような理性崇拝の世界でも
「分からない」ということがあることがよく分かっているし、
謙虚だと思います。

前述のエホバの証人のおばさんたち、私のいろんな見解をしばらく聞いていたら、
結構、今まで知らなかった事を知って嬉しいと喜んで、勧誘のことなど忘れて、すっきりとした顔をして帰っていきました。

2016年11月28日月曜日

「どん底にいる人の思いやり」

ちょっと長いです。しかし、ちょっと暖かくなる話です。
自分の心がささくれ立って来た時に思い出す話です。
お時間のある方読んでいただけたら幸いです。

ニューヨークで仕事をしていた頃、約30年前の話です。

今もそうですが、当時も、私は飲んべえ。
おまけにアメリカのビールの値段は清涼飲料水並み。
その結果、部屋の中にはビールの空き缶が山のように積み重なっていました。

ある日、近くのスーパーで、空き缶を買い取ってくれるという噂を聞き、
缶を詰め込んだ巨大な袋を担いで出かけました。
まるでサンタクロースの風体です。

当時のNYはホームレス全盛の時代で、
すさまじい数のホームレスがあちこちに食べ物を求めてたむろしていました。
当然、スーパーの空き缶回収の窓口は、拾った空き缶を現金化するためにホームレスでいっぱいで、私もその列に並ぶことになりました。

当時はぶっそうで、
金があるように見えると襲われやすいということで、
私もほとんどホームレスと変わらないような身なりでした。

私の順番が来て、カンを持ち込むと、500mlカンは買い取らないと言います。

私のカンはすべて500ml。

どうしたものかと途方にくれていると、
真後ろに並んでいた、よぼよぼの小柄な老人(黒人)のホームレスが、

「俺なら知ってるゼ」と得意顔。

聞けば、ここから歩いて30分ほどのスーパーで買い取ってくれると言います。
巨大な袋を担いで、30分も歩くことを考えたら、もうどうでもよくなり、
その老人に、「これ、全部あげるよ」と袋を渡しました。

彼は信じられないといった表情になり、
「オー、ジーザス!!本当にくれるのか?
ありがとう。あなたはなんて素晴らしい人だ!」
とこちらが戸惑ってしまうような感謝の笑顔。

私は受け取ってくれることにほっとして、「いいんだよ。礼には及ばないよ」と一言。

その場を立ち去ろうとすると、彼は袖を引っ張って私を引き留めました。

「どうしたの?」と怪訝な顔をすると。

「おまえ、きょうの生活はどうするんだ、今日、食事にありつけるのか」
と心配顔で尋ねてきます。

最初は何言ってんだ。と真意をとりかねましたが、
どうやら、私のことをホームレスだと思い、
その日の生活を親身に心配してくれていたのでした。

私はしばらく、幸せいっぱいの表情のその老人をだまって眺めていました。
そして、身体の中が暖かくなっていくのを感じました。

もう今年の冬を越せるのか分からないようなよぼよぼの老人が、
他人の、それも得体の知れない東洋人の心配までしてくれることに感動しました。

資本主義世界の繁栄の中で、見放され、虐げられ、どん底の中にいる老人が、他人の生活を心配してくれるという余裕に驚きました。

すさんだNYの生活の中で心の中に何か暖かいものが生まれたような気がしました。
その老人は恐らく厳しい冬を越せなかったと思います。
寒波が来ると多くのホームレスが凍死していた時代です。

しかし、彼のその思いやりは、30年経った今でも私の心の中に暖かく残っています。
きっと彼の中には、ジーザスが住んでいたのだと思います。

2016年11月27日日曜日

「骨盤の歪み」

私は若い頃から、多分成長期の柔道の練習のせいだと思いますが、
左足が右足より短くなっていて、左靴の踵の減り方が偏っていたり、
左ひざにトラブルを抱えることが多く、それは、現在まで続いていました。

自分で、自分の骨盤が歪んでいるのが分かっているので、
意識して、骨盤の柔軟体操やポーズをやるようにしてきました。
そして、優秀な接骨医の先生に見てもらって一時的に矯正はしてもらっていました。

先日たまたま仕事で有名な鍼灸の先生を撮影することになりました。
オリンピック代表クラスのアスリートにも定評のある方で、予約がなかなかとれない先生です。

撮影が終わって、私が自分の骨盤のことを話すと、
じゃあ、私の鍼灸の理論をここで実証してみせよう。
と、
私が実験台になることになりました。

最初の検査で、おもったより左足が短くなっていて、骨盤がけっこう歪んでいることがわかりました。
検査と言っても、先生が私の両足首をくっつけて、ずらして、両足の長さが感覚的に分かるようにして自覚させるものです。

ぎょっとするほど、その差が分かりました。

その骨盤の歪みですが、

骨盤自体が変形しているのではありません。

骨盤の位置がずれて、骨盤を支え、固定している筋肉の状態が異常になっているわけです。

先生の理論は、その筋肉を直接施術で矯正するのではなく、
筋肉に指令を与えている、脳に刺激を与え、
脳が正常な指令を与えるようにする。というものです。

脳が正常な指令を筋肉に与えると、
筋肉のレイアウトは正常になり、
その結果、筋肉によって支えられている骨盤は正常になる。
という理論です。

骨盤の位置を物理的にポーズや施術で正常にしても、
その回りの筋肉が、脳から、正常ではない指令を与えられていると、
元に戻ります。

で、鍼を打ってもらって、30分ほどして、
再検査しました。
すると、最初と同じ感じで両かかとをすり合わせましたが、
もう、どきっとするほど、同じに長さになっているのが体感できました。

そして、歩いてみると、しっかりと、左足の親指が床をつかめることが体感できます。

ああ、両足正常で同じ長さで地を踏むというのはこんな感じなんだ。
と実感できました。

先生から、その後の、歩き方のポイント等を教えていただきました。

過去にこの鍼治療を受けた方々は、長い人で30年、短い人で10年、狂いが出なかったそうです。

帰りの足取り、別人のようでした。
それだけ狂っていたのだと思います。

あと、鍼が終わって一番最初に気がついたこと、
これは、いっしょに施術を受けた編集者の方も同じ感想だったのですが、
視力がおそろしく良くなりました。
目を開けたときの、治療室の天井の質感が、気持ち悪いほどはっきりと見えました。

帰宅して、自宅にある、3.0まで検査できる視力検査表(ランドルト環)で簡易検査すると、
通常1.5〜2.0ある視力が、2.5くらいまで見えました。

その後、視力は元に戻りましたが、きっと、鍼を打った経絡に視力に関係するものもあったのかもしれません。

生きていると、いろんな発見があるものです。

この仕事をしていなかったら、先生とも出逢えなかったわけだし、
それを考えると人生は不思議です。

これから、日課のランニングが楽しみになりました。

※この取材記事写真が未発表ですので、まだ具体的な名前等をここで記載することはできません。後日、可能であれば、先生の許可を受けた上で、改めて紹介させていただく予定です。




2016年11月25日金曜日

「ヨガは宗教です」


ヨーガの先生もヨガの先生も洋の東西に関係なく、ヨガは宗教ではない。
と主張される方が多いのですが、宗教学的にというか宗教というものの本質から見た場合、ヨガはまぎれもなく宗教です。

これは、宗教学者も指摘していることで、私もそう確信しています。

ヨガが宗教ではない。
という大きな理由というか、誤解は、大きく2つあると、私は思っています。

ひとつは、一般の方の「宗教」の定義が「一神教」であること。
例えば、キリスト教では、
唯一の神が存在して、聖書があって、教会があって、ヒエラルキーがあって、布教があって。
と、これは、仏教でもイスラム教でも同じです。

こういう体裁をとっていないので、宗教ではない。
と漠然と考えている方が多いです。
具体的に言うと、ヨガはキリスト教のような体裁をとっていないので、宗教ではない。
と考えているのと同じです。

そして、アーサナに入る前にマントラを唱えて合掌するヨガが多いですが、
ヨガが宗教であると、教える方、教えられる方、両方に困る方が世界中にいるからです。
まず、多くのキリスト教徒とイスラム教徒はヨガが宗教であると分かると、相当な抵抗があるでしょう。

ヨガは宗教でないという体裁はいくらでも取り繕うことができます。
そうしないと、ヨガが広まらない。というビジネス的なものもあると考えています。

そして、最も大きな原因だと思うのが、
ほとんどのヨギ、ヨギーニが「ヨーガ・スートラ」を精神的バックボーンにしていることです。

ヨーガ・スートラには、ヨガとヒンズー教、仏教への関わりについては、何も言及がありません。ですから、まず、そこで宗教とは関係ないと誤解する。

しかし、根本である八支則は、ヨーガスートラが編纂されるはるか以前からヒンズー教の規範だったのです。

八支則(アシュタンガ)は、ヨーガスートラが起源だと思っている方が相当いますが、
八支則は、ヒンズー教とヴェーダの基本哲学です。宗教の根本をなすものです。

パタンジャリは、ヨガを学ぶ人がヒンズー教徒か仏教徒であるということを、大前提にしていた。
そう考えるのが当然だと思います。
そして、それを簡略化(スートラにして)紹介した。
無宗教の人が、考えられなかった時代です。

現在、地球人口の70数億人の中の50数億人は、一神教徒と多神教徒です。約8割です。
その中で、ヨガが世界に普及するためには、ヨガは宗教とは関係ない。と主張しないと、普及はしなかったと思います。

ヨガを世界に大規模に普及させたのは欧米人です。
ですから、私は、ヨガは宗教ではない。
というのは、ヨガ布教のための知恵だったと考えています。

しかし、そのおかげで、

ヨガを行うようになって、仏教やヒンズー教に注目して、帰依する人が、増えています。
そして、このことも、ヨガは宗教であるという大きな理由のひとつだと思っています。
これは、とても良いことだと思っています。

2016年11月23日水曜日

「筋力の重要性」

ストラドル・プレス・ハンドスタンド from 井手宏幸 on Vimeo.

ヨガのアーサナでも、そのアーサナを完成させるためには、
最低限必要な筋力というものがあります。

この筋力というものを身につけるのは結構やっかいです。

筋力と言えば、每日、こつこつと、負荷をかけながら強くしていくといくのが一般的な考え方ですが、
確かにある程度の負荷をかけながら反復練習をしていくと、
筋肉は付いてきて一見強そうにはなりますが、
実は、筋力はそれほど付いていないということが多いです。

筋力を最も効果的に付けるには、自分の限界かそれを少し超えた程度の高負荷のトレーニングをすることが必要です。

その、「限界」ですが、これは経験によって知るしかないのですが、
4〜5回繰り返すと身体が動かなくなる程度。
というのが私の経験から言える「限界」です。

私は現在62歳ですが、まだまだ、ヨーガや器械体操の逆転系のアーサナや技が無理なくできるというのは、この「限界」まで引っ張る高負荷の筋トレをやってきたからだと思っています。

最近、倒立系が不安定になってきていましたが、
先日、久々に海岸でアームバランスの高負荷トレーニングをやったら、

本日、結構きつく感じていた倒立が、俄然軽くなりました(動画)。
同じ自分の体重か?という感じです。

高負荷というのは人それぞれです。
その人の持って生まれた身体、運動歴、いろいろありますが、
自分の限界値というものをある程度把握して、
筋肉に、それより少し上の負荷を与えるという事は、
長くヨガをやっていく上で大事だと思います。

どんなに、呼吸やタイミングの取り方、身体の使い方に長けていても、
自分が思うように身体が動かない。

そういうときは、筋力が衰えてきている。
と考えて良いと思います。

筋力をバカにしてはいけないと思います。
筋力は、簡単に技術の壁を超えることもあります。

「心配という概念の本質?」

写真は、Instagramでお互いにフォローしているミシェルさんのフィードのひとつです。

ミシェルさんは20年のキャリアを持つアイアンガーヨガの先生で、オーストラリアで教室を開いています。

彼女のフィードは、ほとんど、彼女のイラストで、その下に、師のB.K.Sアイアンガー師の言葉が添えられています。このイラストと師の言葉が楽しみで、良く覗いています。

この、アイアンガー師の言葉、
「未来には恐怖が存在するが、現在には存在しない」。

以前読んだ、アメリカの医学博士マックスウェル・モルツ氏の本で、未来についての意識調査で興味あるものがありました。
「あなたは、あなたの将来に関して心配をしたことで、その心配したことが解決しましたか?」
という調査を広範囲に長期間行ったそうです。
すると、その結果、
99%の人が「解決しなかった」
と解答したそうです。

結局、その「心配」というものは、未来という概念にしか存在しない、一種の妄想であって、その妄想を現在という時間、唯一の実体において、恐れているのが「心配」という概念だと思います。

よく、心配と注意深さを混同する方がいますが、心配は妄想で、注意深さは慎重さ、思慮深さに属し、今現在具体的な説得力のある説明ができるものとして存在する。と私は思っています。

面白いのは、私の経験上ですが、心配症の方の多くは、危機管理能力、危険回避能力に欠けています。自分の目が現在に向かっていないのが原因だと思います。

アイアンガー師の言葉は、仏陀の未来や過去というものは存在しない、現在だけが実体だという言葉にも裏付けられるものだと思います。

今、そこにある恐怖は、実は恐怖ではなく、危機です。
恐怖は、同じ対象でも、ある人には存在し、ある人には存在しない概念で、危機は、多くの人にとって実体を伴っています。

こういうやっかいな概念を払拭するベストなトレーニング、
それは「瞑想」だと思います。

それからモルツ博士はこう書かれています。

自分が普段考えていることで、一般的にネガティブ思考だと思われていることでも、それを考えている時間が、全体の3割以下だと問題ない。それが5割7割になると、それは妄想に近くなり問題だ。

ポジティブ思考とネガティブ思考の境界、それは、それに費やす時間の比率。
つまりネガティブ思考が慢性的であるかどうかだと私も思います。


2016年11月22日火曜日

「有り余る時間で」


我が家にある祖父の形見の石仏は、仏教美術では「水月観音」と呼ばれています。
水月観音は、観自在菩薩の一つの仏教美術形です。

観自在菩薩は、般若心経を弟子に説いている仏陀の姿を象徴したものだと言われています。

この観自在菩薩には、足の組み方や手の置き方に大まかな決まりのようなものがあって、
膝を立てて、その上に手を乗せて、手先は垂らしていたり、膝を抱えていたりしている様々な仏像があります。

子供の頃から祖父の水月観音を見て育った私は、ヨガを終えると、自然と、この水月観音のポーズになることが多く、このポーズをとると、とても落ち着きます。

般若心経は、仏陀がヨーガの修行を続けている時に、弟子に説いたスートラとして有名です。それを知っているせいか、私は、勝手にこの仏陀の座り方、坐法をアーサナの終わりに持ってきます。

本日午前中に仕事を片付け、穏やかな天気だったので、自宅近くの海岸にヨーガの練習にでかけました。

いつも、アームバランスをやっている岩が、観自在菩薩が腰掛けた岩のイメージに似ています。この岩は私の友人です。この岩のおかげで自分は、いろんな事を学んでいます。

で、

ここで、練習が終わると、このように、この岩の上に座って、観自在菩薩のポーズをして、しばらく海を眺めています。

こういう、有り余る何をやってもよい自由な時間は、ヨーガにとって最も大事な時間だと思っています。

決められた時間で決められたポーズを繰り返す。

あまりに現代的で、ヨーガ本来の姿から離れていると思います。

もっと、自由に、大らかに、無駄な時間を贅沢に使ってヨーガをやったら良いのに。
と思います。

ヨーガってそんなものだと思います。


「つま先の形」

座って足を伸ばし、腿とふくらはぎを床につけたまま、つま先を曲げて床につけるストレッチです。

過去に、競泳のストレッチで、徹底的にやらされていました。
バレエでも大事なストレッチですね。

このストレッチ、いつの間にか忘れて半年くらいさぼっていたら、着かなくなっていました。
ちょっと時間をかけてほぐしたら、畳まであと1cmくらいまで曲がりましたが、
いつの間にか固くなっていてショックでした。

現在Instagramで、頻繁にアームバランス系アーサナやアクロバティックのポーズをアップしていますが、つま先はバランスをとる上でも、そして、何より美しさに影響します。

私はどんなヨガのアーサナでも、足先は真っ直ぐに伸ばすということを心がけています。
曲げている方が仮に安定しても、曲がっているアーサナは美しくありません。
自分なりにでも、美しさを最優先しています。

現在、Instagramで、メッセージのやりとりをしているバレリーナとシルク・ドゥ・ソレイユのスターたちが数名いますが、つま先がキレイに伸びたアーサナをアップすると、必ず、「いいね」をくれます。逆に、これはだめだろうな。という中途半端なつま先の形だと、絶対に、お世辞でも「いいね」はくれません。

やはり、「美」と「安定」の評価基準は古今東西、ジャンルには関係ないという感じがします。

美しさは善だと思います。
美しくあれば、安定と調和が成り立っていると思います。

そのためには、細部まで神経が行き届く練習ですね。
年齢を重ねた現在、それを強く感じます。



「最後に残るのは?」

Instagramに、多くの「今日の格言」的なフィードがあります。

最近アメリカではスピリチュアル系が流行っているので、
その手のものが多いのですが、
紹介してある格言は、実際に仏陀やジーザスが語ったものなので、
ときどき目を通しています。

仏陀の格言というと、日本語だと、えらく儒教的な説教臭い感じがしますが、
こうして英語になると、とてもすっと入ってきます。

インド人は人種的に欧米人と同じアーリア系で、サンスクリット語はラテン語と共通している部分もあるので、親和性があるのかも知れません。

以下、私、意訳。

ある男が仏陀に、尋ねました。
「私は幸せが欲しい」

仏陀は答えました。

「あなたが言った"私は幸せが欲しい"という言葉の中から、まず、"私”という言葉を取り除きなさい。それはあなたの"エゴ"だ」

「次に、"欲しい"という言葉を取り除きなさい。それはあなたの"欲望"だ」

「そうしたら、残る言葉は、"幸せ"だけになるだろう?」


上手い!座布団十枚!と言いたくなる言葉だと思います。

余計なもの、執着をひとつひとつ取り除いていくと、そこに幸せがある。
執着するものがなくなるにつれて、人は幸せになる。

まさに真理です。

優れた預言者や宗教家は、真理を分かりやすい印象的な箴言や格言で、繰り返し伝えることに長けています。ジーザスと仏陀はそのチャンピオン。

現代では、良い例が、ダライ・ラマ14世猊下。

ダライ・ラマ猊下のFBページを時系列で見ていると、定期的に同じことを手を変え品を変え伝えています。

こういう格言は、もう知っているから、とは言わずに、何度も何度も繰り返し、読み返してみると、自然に潜在意識に入って行きます。







2016年11月21日月曜日

「焼き芋学」

昨年まで、冬季の暖房はエアコンとガスストーブでしたが、今年から石油ストーブを使うことにしました。

昔なつかしいトヨストーブと、小型のアラジン(写真)を2台購入して、温める広さや気温によって使い分けています。

私が子供のころは、ストーブと言えば石油ストーブでした。
大体、ストーブの上には鍋かやかんが乗っかっていて、シューシュー音がするのが恒例になっていました。そして、灯油の炎がなんとも言えない落ち着きを与えてくれます。

いつもはうるさい我が家の文鳥も、炎を見ると落ち着くのか、ストーブを入れるとおとなしくなります。

この写真のように、芋をホイールで包んで乗っけるのも、冬の風物詩でした。
焚き火をするときは、焚き火の下に、芋をそのまま埋めて焼くというか蒸していたのですが、この石油ストーブでも、実に美味しい焼き芋ができあがります。

オーストラリアのアボリジニも焚き火を使って長時間焼く(蒸す)ことによって、焼き芋を作るそうですが、焼き芋は、なるべく弱火で長時間焼いた方が甘みが増し、香りも良いです。多分、その方が、デンプン質が糖質になりやすいのかもしれません。

実はコーヒーや乾物も低温で時間をかけた方が美味しいものができあがります。
コーヒーは水出しが一番だと言われる所以です。
乾物も、干し椎茸は冷水に浸して、冷蔵庫に一晩置く方法が一番香りも味も良く、栄養価も高いです。お湯で戻すと、香りと味が飛んでしまい、どんな名産のしいたけもまずくなります。

干しアワビもそうです。干しアワビは大体2日ほどかけて戻します。

最近ソイ・ミートという大豆をミンチにしたような商品がありますが、
これも乾物として売っています。
取説にお湯で戻すように。
とありますが、
お湯と水両方で戻して、味と香りを確かめましたが、
断然、水、それも冷水が美味しいです。

お湯で戻す。というのは、ただ単に時間短縮の意味しかないんですね。
何事も時間をかけてじっくりと。というのが黄金律だと思います。

仕事柄、日本を代表するような料理研究家の方々と仕事をしてきましたが、
やはり、料理は手間暇だと思います。

自分的には、伝統的な精進料理が最高です。
精進料理には、ヨーガに通じるものがあります。

仏教の世界では、料理も修行のうちです。




2016年11月20日日曜日

「体内時計と目標タイム」

ベントアームプランシェ from 井手宏幸 on Vimeo.

一般に体内時計と言ったら、昼夜の太陽の光と闇夜を感じ、人間の規則正しい生活を測る一種の人間の本能的なものですが、
ここでは、文字通り、時計を見ないでどれだけ正確にカウントできるか。
という意味で話題にしました。

競泳のマイケル・フェルプスは14歳の頃、ボーマンコーチから、1500mを15分で泳げ。
と命令されたときに、15分00:08秒で泳いだそうです。
時計を見ていないのに、誤差は0,08秒。
もう、これは神の世界です。

この体内時計は、ある練習を一日何時間も何年も続けていると誰にでもできてきます。
もちろん、マイケル・フェルプスは特別ですが、
私は、200m自由形×20本の練習で、全本数、設定時間(2分50秒)の大体2秒以内に収めていたことがあります。
そして、回を重ねる毎に誤差は縮んできます。
優秀な選手は、誤差が一秒を切るそうです。

これは、「練習」「訓練」の本質的なものを示していると思います。
人間は、設定されたものに、本能的に近づいていきます。
本能的ですから、意識していてはできません。
それは、繰り返しの「辛さ、キツさ」の後にやってきます。

この無意識の体内時計が、今どうなっているのか?
と思って、昨日、動画のベントアームプランシェを1分×5本やってみました。
動画は、最初はスローモーション、途中はコマ送りに速くなって36秒程度にまとめてあります。
ポーズを開始してから、まず、頭の中に数字のみが浮かぶように意識して、
一分だと思ったところで、止めます。
その後、ビデオのタイマーを見て、どのくらい正確だったか確認します。

最初は2秒くらい誤差がありましたが、その後、誤差は縮んで、最後には1秒近くになりました。
1分で1秒と言えば、昔の自分からしたら、あまり良くないタイムですが、
長いブランクの後なので、まあまあかな。とも思います。

しかし、

意識の中が自動カウントモードになったら、このハードなアームバランスがあっという間に1分できます。
通常、意識していない状態だったら、20秒もすると、ああ、だめだ。
と止めてしまいますが、ここが意識の面白いところです。

目標タイムというのは、一種の自己暗示で、一見不可能なことを可能にするものだと再認識しました。

2016年11月19日土曜日

「パタンジャリは20世紀まで無名だった」


インドや欧米の学者の間では、
パタンジャリはただの編集者や編纂者だと言われています。

それまでにあったヴェーダやバガヴァッド・ギーターの教えを編纂してヨーガスートラにまとめたからだと思います。sutraとはshort statement、すなわち簡略文です。
簡略前の膨大なデータがあるわけです。

面白いのは、200近いスートラの中でアーサナは3つしかないところです。
ヨーガは瞑想だ。と言われる所以です。
アーサナはヨーガのほんの一部なのです。

パタンジャリは、どこか、キリスト教の福音書史家と似ているようなところがあります。
福音書史家は後に聖人になりましたが、当時は単なるジャーナリストでした。
様々な調査や聞き取りによってジーザスの教えや行動を記録にしたからです。

それらは、後世の宗教会議で、カトリック教会に都合の悪い部分は削除されたりして、
現在の27のブックにまとめられました。
新約聖書にも削除されたり、目に触れられていない膨大な記録が背後にあります。

一編纂者にすぎないパタンジャリがなぜ、開祖のような喧伝の仕方をされているのか、
私にとっては、とても違和感がありました。

実は、パタンジャリは、単なる、編纂者の一人として、20世紀を迎えるまでは、
インドでは注目されることはありませんでした。
というより、知る人もいなかったそうです。

20世紀までは、ヨガと言えば、バガヴァッド・ギーターとヨーガ・バシスタ、ハタヨーガ文献、タントリック・ヨーガ、パーシュパタ・ヨーガでした。

ヨーガ・スートラは、クラシックヨーガを現在まで伝えた多くのヨーガのひとつであったと言うのがヨガ学者や歴史家の見解です。

そして、多くの学者が、それまで無名だったパタンジャリの名を祀り上げたのは、商業ヨガだと指摘しています。
多分、20世紀中期、インドのグルの元でアーサナ中心のヨガを学んだ欧米人が、販促における精神的バックボーンとして祀り上げたのではないのでしょうか?
私はそう思います。

インド人のインテリ層と話しをしていると、どうも、現在流行っているヨガと、彼らが日常の知識として知っているヨーガの間に乖離があって違和感がありました。
あるインド人は、現在の欧米のヨガを、商業ヨガだ、体操ヨガだと云います。
そのことは、パタンジャリの喧伝とも関係がありそうだと感じています。

伝統的なヨーガ(クラシックヨーガ)を現在の世界に紹介したグルは、
Swami Vivekananda(スワミ・ヴィヴェーカナンダ), Paramahansa Yogananda(パラマハンサ・ヨガナンダ), Aurobindo Ghose(オーロビンド・ゴーシュ),  Swami Shivananda(スワミ・シバナンダ)です。

あるインド人が面白いことを言いました。
「名前にナンダが付くグルがヨーガを正統に伝えていると思えば良い」。

思わず「そうナンダ」。
と言いそうになりました。

現在インドで最も人気がある存命のグルは、Baba Ram Dev(ババ・ラム・デヴ)師です。
ラム・デヴ師はグルというより篤志家のような存在で、
全インドに最も多くの弟子を抱えていて、現インド首相もそうです。

そのお布施で広大な土地に大学やアーユルヴェーダの病院を抱えて、添加物フリーのアーユルヴェーダに基づいた石鹸や日用品を販売して、欧米の添加物満載の石鹸や食品で毒されたインド人の健康を取り戻そうと日夜奮闘されています。

そして、欧米の商業主義の商品やグローバリズムを名指しで批判しているためか、
欧米のメディアからは、徹底的に無視され、キワモノ扱いされている感があります。

全世界に影響力を持つ欧米のメディアはそういう側面を持っています。
ですから、欧米人に親和性のあるクリシュナマチャリア師のモダンヨガに対しては、相当好意的で、それがあって、全世界的にヨガが広がったのだと思います。

その結果、モダンヨガがバックボーンとしているパタンジャリがあたかも聖人のように祀り上げられたのだと思っています。

私はクリシュナマチャリア系統のモダンヨガが日本上陸する前からヨーガをやっていました。
当時は、こういう知識のあるヨーガの先生兼研究者があちこちに居て、様々な知識を得ることができ、ヨーガの全体像がおぼろげに自分の中にありましたが、

1990年以降のヨガは、どうも、自分のヨーガとは異質です。
ですから、自分勝手ですが、ヨーガとヨガは分けて考えています。
でないと、整合性がとれないのです。

2016年11月17日木曜日

「天の声を聴くために」

伸肘倒立・スタート練習 from 井手宏幸 on Vimeo.

なぜか、アメリカのInstagramフレンドの方から、伸肘倒立のリフトアップをサイドから見たいと頼まれて、本日夕方、海岸まで撮影に出かけました。

実は、私も横から、どうやって、どんなタイミングでリフトアップしているのか漠然としたイメージしかなかったので、良い機会だと思いました。

で、撮影後、よく映像を見ると、全く自分が意識していなかったことを、無意識にやっていることに驚きました。

やはり、身体を動かすということは、理屈の世界ではなく、身体の感覚で覚えるものだと納得しました。

アシュタンガヨガのアジャスト、体操のアシストは、アジャストする人、アシストする人の経験内でのアジャストであって、それで、直ぐにできるようになることはない。
予め、そのアジャストする先生のレベルまで、生徒が登って近づいていくことが必要だと思います。

私の場合は、現在、師がいないので、こうやって、映像を見ながら、試行錯誤しながらアジャストするしかありません。

そして、時々聴こえる「天の声」が師の声です。

多分、時間的には、遠回りになると思いますが、それが意外なノウハウの蓄積に繋がって、結局近道になったりすることを経験したことがあります。

誰も教えてくれない。
ああでもない、こうでもない。
もしかしたら、全くの無駄な練習かもしれない。

なんて、不安になりながらも練習するのも、楽しいものです。
その先に見えるものは何だろう?

と、ちょっと嬉しくなった本日の練習でした。



2016年11月15日火曜日

「アヒムサ」

Instagramフレンドの、アシュタンガヨガ正式指導員のIさん(日本人)が、
日本でも指導している国際的なアシュタンガヨガ指導員のタリックさんから、
「肉食をやめるように」
と約束させられた。
とInstagramに書いておられました。

アシュタンガヨガの八支則のアヒムサに、
Non violence,no harming(非暴力)がありますが、
一般的に、殺生や暴力を行わない。という漠然とした意味で伝えられているようです。

B.K.Sアイアンガー師が、著書「Light on Yoga」で、以下のように述べておられます。
“The word ahimsa is made up of the particle ‘a’ meaning ‘not’ and the noun himsa meaning killing or violence. It is more than a negative command not to kill, for it has a wider positive meaning, love. This love embraces all creation for we are all children of the same Father – the Lord. The yogi believes that to kill or to destroy a thing or being is to insult its Creator.

前半は、
「アヒムサは殺傷を禁じるという以上に、もっと広い意味で、ポジティブな意味においての「愛」を含んでいる」というアヒムサの説明的なものですが、

続けて、

「この「愛」は創造主の子どもたちである全ての創造物を慈しむものである。ヨギたる者は、この創造物を殺したり破壊したりすることは、創造主を侮蔑するものである」と自分なりの解釈を述べておられます。

このアイアンガー師の教えは、最近、よく、欧米のヨガの先生がアヒムサの説明に引用されことがあるようで、私も時々目にします。

きっと、タリックさんも、アヒムサの解釈として「Do not kill animals」という意味も含めて言ったのだと思います。
八支則的解釈での
「肉食をやめるように」
は、肉食が健康に及ぼす云云ではなく、
「殺生は行わない」
の延長にあると思います。

私は、死ぬまでヨガを続ける以上、
このアヒムサの解釈からは逃れられないと思っていました。
自分的には「踏み絵」のような感じでした。

アヒムサなんてどうでも良い。
というのなら、それでも良いかもしれませんが、
パタンジャリの精神においてヨーガを修行している。
となると、やはり、タリックさんの言うことは当然だと思います。

ヨガを続けていくと、自然に菜食になっていく。
ということは、こういう事だと、考えています。

私は完全に菜食になってから、見違えるようにタフに健康になりましたが、
それより、精神的に解放され、楽になりました。
ヨーガをやっていなかったら、こうはならなかったと思っています。

2016年11月13日日曜日

「肩のストレッチ」

あらゆるスポーツ、ヨガのポーズに関係してくる肩の柔軟性。
特に倒立・アームバランス系では、可動域や、微妙なバランスに
肩の柔軟性は影響します。
もちろん、ケガを避けるためにも、每日やっておきたいストレッチです。

私は、右腕、右肩回りの筋肉が左側のそれより太いので、
こうして写真に撮ってみると、どうしても、シンメトリカルにはなりません。

右利きの場合は、多分、右腕下がやりにくいと思います。
このストレッチを最初に始めたのが、小学生時代。
右下がやりにくくて、嫌でした。

しかし、やりにくい方をやらないと意味がないので、重点的にやっていたら、
いつの間にか、右下の方がやりやすくなりました。

こういうことってよくあります。

意識的に、苦手な側や方向を普段からやっておくと良いと思います。
特にヨガを始めてからは、どちらでもできないと、どこか、アンバランスな感じが強くなりました。

手首と肩の柔軟性。
いつどこにいてもできるストレッチなので、
忙しいときは、横断歩道で信号待ちの時にやっていることもあります。



2016年11月11日金曜日

「久々のハンドスタンド」

Press to handstand 11/11 2016 from 井手宏幸 on Vimeo.

久々のハンドスタンド練習です。
先日、入手したFlowというiPad用の動画編集ソフトで遊んでみました。
動画をいくつかに分けて、再生速度を調整できるソフトで、なかなか良くできています。
最初の方だけ、コマ送りにしてみました。

ヨガが世界的に広まるにつれて、ハンドスタンド(倒立)の人気が俄然上がっています。

この動画もInstagramにアップしましたが、
handstand、 adhomukhavrksasana(アドムカブルクシャサーナ)とタグを付けると、
他のどのポーズより、反応があります。

Instagram友のアメリカ在住の日本人ヨギーニも、ハンドスタンド中毒。
ヨガスタジオはハンドスタンドが大流行の様子。
シールシャーサナや、ピンチャマユーラーサナも、もちろん大人気です。

やはり、逆転したときの気持ちよさ、非日常的感覚が受けているのだと思います。
Instagramでは、逆転系の写真でいっぱいです。

自分の場合は、ハンドスタンドを、様々なバランス系の基礎技術的だと考えているので
ちょっと、捉え方が違うとは思うのですが、
こうやって、逆転してみると、やはり、気分が良いものです。

ハンドスタンドは、その人の筋力や体型によって微妙に、やり方やスタイルが違うので、
なかなか、アドバイスをするのは難しい技術だと思います。
あちこちで、アドバイスのやりとりがあって、それを見るのが楽しみですが、
皆、それぞれに、ちょっとずつ違う。笑。
それが当然だと思います。

しかし、基本さえ押さえて、とにかく、練習していれば必ずできるようになる技術なので、こつこつと、諦めずに続ける人が勝ち。って感じがします。

2016年11月10日木曜日

「自分の居場所」

仕事の話で恐縮です。
この写真、恐らく、自分の仕事の中でも最も印象的な撮影のひとつだと思っています。
彼女はパリで活躍する演技派女優のマリ・ジラン。
ベルギー人です。

彼女が来日した時にマリ・クレール誌の仕事で撮ったものです。
ちょうど、世界的なコスメ、ランコムの広告モデルで一気に有名になった頃でした。

私も、この頃は、今までの中で、最もエネルギッシュな時期でしたが、
プライベートは混乱していて不安定な時期でした。

とにかく、瞑想をしているときや、
写真撮影に没頭しているときが、一番、平和で安定していたと思います。
そこが、自分の居場所、避難所みたいなところがあり、
瞑想にも写真にも「心の平安」を求めていた時期だったと思います。

ですから、プライベートが混乱して、すさんでいたにも関わらず、
この頃の写真は、実に平和で、穏やかです。
ほんと写真は鏡で、自分が、被写体に写し込まれると思います。

人間って、誰でも、自分だけの精神的な居場所、避難所を持っていると楽だと思います。

作家の吉行淳之介や村上龍もエッセイでその事について言及していました。
彼らも、若い頃から、いかにして自分の居場所を確保するのかを意識していたと述べています。

彼らは「作家」としての居場所を確保したわけですが、私も、なんとか自分の居場所を確保できたので、今までやってこられたのだと思っています。

この、自分の居場所は、人それぞれで、具体的に違って多様であると思います。

しかし、自分が逃げ込める場所があると、なんとかやっていけると思います。

現在は、私は、半ば隠遁生活みたいな平穏な生活なので、
生活全てが避難所みたいになっていますが、
人生は、いろんな大変な事がサイクルで起こります。

私は、ちょっと凹んだり、ショックな事が起こると、
いつも海岸に出て、10kmほど走ります。
そして、プラナヤマとちょっとポーズをして。
大体、それで、一時しのぎ的にメンタルは回復します。
それでもだめな時は、再び創作活動に没頭、三昧の生活。

そんなふうに、いつも自分の逃げ場と逃げ方を用意しています。

特に精神的に危機的な状況は人に相談してもらちがあきません。
自分で考えて内省して、そして、なんとかするか、悪魔が立ち去るのをひたすら待つ。

そのための自分の居場所は、誰にでも必要だと思います。



2016年11月8日火曜日

「アームバランス動画」

ベントアームプランシェ from 井手宏幸 on Vimeo.

本日、午前中、海岸付近は無風で穏やかだったので、岩場で練習しました。
もう、気温が低く、海ヨガは終了の予定だったのですが、
本日のような無風で気温も低くない日は、ヨガが楽しめそうです。

アームバランスを初めて動画で記録してみました。
iPad Mini4のカメラですが、
とにかく画面が広いので、確認しやすく、使いやすいです。

リフトアップは、割りと軽く上がったので、体調は良かったようです。

肘は腰幅、両手幅は5cmほどの逆三角形になっているので、
バランスをとってからも、ゆらゆらしています。
約15秒のキープですが、10秒以上になると、
結構バランスと筋力のトレーニングになります。

やっているときは気が付かなかったのですが、
波の音が気持ち良いです。
この動画でも聴こえると思います。

大自然の中のヨガはいいですね。改めてそう感じました。

2016年11月6日日曜日

「しんぴ倒立カメラチェック」

Press to handstand practice from 井手宏幸 on Vimeo.
ちょっと前に再び、しんぴ倒立(プレスハンドスタンド)のカメラチェックしてみました。
上がり始めの足がくの字に曲がっていたのが、だいぶ伸びてくるようになりました。
重心が後ろに残っていて、足に力が入りすぎていたようです。

原因は、やはり、重心を前に移動するために身体を傾けますが、
そのときに、前につんのめるのではないのか、というメンタルブロックが働いているのが原因なようです。

これはヨガでもスポーツでもよくあることですが、
じゃあ、メンタルブロックを無くすにはどうしたらよいか?
ということになると、これは練習しかありません。

行き着くところはいつもここです。笑。

当たり前のことが再確認できただけで意味があったカメラチェックでした。

2016年11月5日土曜日

「人間は価値観で変わる」

仏陀の言葉に、
「人間は本質的に変わることはない。価値観が変わるだけだ」。
というものがありますが、
私も全くそう思います。

60年生きてきて、人間は、本質的に変わらない。
と自信を持って言えます。
ただ、コントロールできるようになっただけの話しだと思います。

しかし、本質的に変わらなくても、
その人の価値観が変わると、思考習慣が変わり、
それは行動様式の変化へとつながっていきます。

すると、

その人の生活や人間関係が、変化して、あたかもその人が変わったかのように見えます。

私の30歳後半〜40代は、典型的な、バブル期に見られるような生活でした。
世田谷の200坪の家に住んで、車は3年で買い替え、毎週家でパーティー三昧の生活を続けていました。
そういう生活を10年以上続けていました。
ヨーガの練習がおろそかになっていたのもその時期です。

しかし、どんなに、物を買っても、楽しいことをやっても、それは、それだけの話しで、それ以上の何の感動もなく、すぐ忘れてしまい、次の楽しみへと向かう無限ループに陥ります。
どんなに欲しいものを買っても、大体三ヶ月で飽きると云います。
本当に必要なものは、もっともっと少ないはずです。

話しは横道に逸れますが、カトリックの修道士になる人には、昔は貴族、近現代では、実業家である地位まで昇りつめた人が多いそうです。
インドのサドゥにも、もと天才プログラマーとか、仕事で成功を納めた人たち多いそうです。

仏陀も聖フランチェスコもそうです。

あまりに物質を追い求める生活を長く続けると、先が見えなくなり、それで良いのか?
という人間としては当たり前の感覚になります。
では、
「本当は自分は何をしたいのか、何を求めたいのか?」
と突き詰めて考えていくと、それは価値観の変換につながっていきます。

私はそういう生活のあとに、破産状態と離婚を経験したので、
価値観の変換は顕著でした。

金で買えるものだけ求める生活は長く続かないし、すぐに飽きます。
お金では自由は買えますが、幸福や真の満足は買えません。

なかなか自分の自由にならないものは、自分の身体と精神です。
それを、変えていくこと、その向こうにある自分に近づいていくこと。
それが、一番エキサイティングで価値のあることだと思うようになって数年経ちました。

自分のヨガやアクロバットトレーニングの写真をInstagramにアップするようになって、
多くの、同じ価値観の世界中の男女と繋がるようになりました。

ネットはバーチャルですが、その向こうにあるのは、リアルな現実の生活です。
メッセージは「写真」で伝わるし、伝わってきます。

欧米では特に、多くの人が価値観変更の岐路に経って、価値観を模索したり、すでに変更しているのが分かります。
これは、グローバリズムの世界になってから顕著になったと思います。

今までストリートファイトに明け暮れていた若者が、ハードなトレーニングで新たな自分を目指している姿や、金融トレーダーが仕事をたたんで、冒険こそ命。と
世界中の秘境を旅しているのを見ると、
世界も変わってきた。希望が持てるようになったゾ。
と嬉しくなります。

そして、私も、今日も、トレーニングの様子(写真)や、ヴィーガン料理の写真を世界に向けてアップしています。

人間は本質的には変わらないと思いますが、
価値観で大きく変容すると思います。

そして、同じ価値観の人間は繋がりたがると思います。
そして、その価値観を確認したがると思います。

自分にとってもっとも親しみの持てる人間は、血のつながりや付き合いの年数ではなく、同じ価値観を持つ人間です。

2016年11月4日金曜日

「ヨガとランニング」

ランニングの後にヨガを楽しんでいる方が意外に多いと思います。
マハトマ・ガンジー師宅に居候されていた沖正弘師の回想によると、
師は早朝、ヨガの前に走っておられたそうです。

私がヨーガを始めたころ、ヨーガ道場(弟子の住み込みが多かった)では、大体、早朝ランニングのあとにヨーガというのがお決まりのコースでした。

私も、主に春〜秋は、6kmのお決まりの海岸コースを走って、
ひとしきり汗をかいてから、海岸でヨガをやるのが日課になっています。
大体、2km走ると血液が身体を一巡するそうですから、3巡ですね。

心肺機能が活性化して、身体もクリアになり、
気分的にもハイになったときにヨガを行うと、
神経の集中度も俄然違ってきます。

そして、通常だったら冷え始める体温がヨガの緩やかな動きで適温にキープされて
免疫力の機能もハイレベルになります。

ヨガの前にお勧めなのは、以前にも書いたように、スロージョギング程度のランニング。
LSDといいます。ロング・スロー・ディスタンスの略です。

低負荷、長時間(最低一時間)という運動は、毛細血管を発達させます。
実は、毛細血管を発達させることのできる運動は、長い間、このスロージョギングだけだと言われてきました。

最近ではトレーニング機器が発達して、それ以外でもできるようですが、
最も効果的で古典的でお金のかからない方法です。
オリンピック選手も、オフシーズンには必ず行っているトレーニングです。
こればかりは、いくら歴史のあるヨガのアーサナでも無理なのです。

毛細血管が発達すると、酸素が隅々まで行き渡り、
末端の部位の老廃物をすみやかに肺まで運ぶルートになります。

ヨーガの先生たちもそれが分かっていらっしゃったようで、
ヨーガにできない効果を求めて、スロージョギングを練習に取り入れていたのだと思います。

私は、競技の補助や、調息、瞑想の一環としてヨガを行ってきたので、
ヨガは、興奮して熱を帯び、疲れた身体を鎮めるものである。という考え方です。

ですから、ヨガ自体で汗を沢山かくというのは、あまり好みではありません。
例えば、水泳長距離練習で3000m泳いだ後に、
ハードなヨガをやるなんて、とてもじゃないけど、危険です。
大体ヨガに臨むときには、筋肉も疲労し,大量の汗をかいていることが多いからです。

多くのアスリート系ヨギは、大体、私のようなやり方が多いと思います。
私は、よくアームバランスや倒立系をやっていますが、
これらは、過激な割に、ほとんど汗はかきません。

大体10秒前後のキープ時間なので、バランスをとるまでの一瞬の負荷だけで、
筋肉に対する負荷はそれほどでもありません。

スローなジョギングで単調な動きになった身体に喝や、刺激を与える。
といった感じでしょうか。その一瞬の集中力が大きな刺激になります。

市民ランナーとして練習しているヨギやヨギーニが多いと思います。
彼ら彼女らがこの気持ちよさに気がついたというのは、自然の成り行きだと思います。


2016年11月3日木曜日

「いつもと違う感覚で新鮮」


約1年愛用していたランニングシューズがへたってきたので、
新しいシューズを購入しました。
ここ何年かは、ずっとアディダスのアディゼロというシューズを愛用しています。
とても軽くて、底が薄く、素足感覚です。

先日、おろしたてのアディゼロで走ったあとに、岩場でバランスやってみましたが、
やはり、素足とは、全くバランス感覚が違いました。

まず足先が自由に曲がらないので、微妙に重心が取りにくいし、
やはり、軽量といってもシューズの重さがあるので、
重心の位置も少し違ってきています。

人間の感覚って、こんなにもデリケートなのかとちょっと驚きました。

それでも、2〜3回トライして何とかバランスをとってみましたが、
いつもは足先でバランスをとる代わりに、上半身の角度でごまかしていたり、
結構、未体験のバランス練習になりました。


下はGasyaのトレーニングの様子ですが、幼い娘さんを背負って倒立しています。
子守も兼ねているようで、なんか凄い光景です。笑。

普段の練習にちょっとした刺激や工夫を与えるのも面白いと感じました。

2016年11月1日火曜日

「練習と休養の問題」

ここ4〜5日ほど、身体がだるくて、そのせいか気力も失せてしまって、
全く、ランニングやストレッチ、ヨガから遠ざかっていました。

年間で一番運動量が多いのが、気温が最も高く体調もよい7月8月なので、
その疲れが今頃押し寄せてきたという感じです。

今日は久々に体調も回復して気分が良いので、ストレッチをやってみました。
多分4〜5日、全くやっていなかったので、かなり固くなっていると覚悟していたのですが、
結果は全く逆で、とても良く曲がり、反ります。
限界近くまで曲げても、筋肉の痛みがない。

練習をほぼ每日やっているときの筋肉は、やはり疲労していて知らない間に固くなっていると思います。その状態でストレッチをやると、筋肉は痛みのシグナルを発して、限界値も低くなるのでは?と感じます。

先日「ストレッチのプロ」のところでも書きましたが、
やはり、柔軟性には、筋力が密接に関わっていると思います。

筋肉疲労が回復すると、柔軟性も増す。

休養も練習のうち。
と言いますが、まさにそれを実感しました。

休養という回復期の問題はむつかしいと思います。
練習は2日は空けるなといいますが、
それは人によって、状況によって違うのでは、と思います。

私の場合は、每日練習。
そして、疲れが出てきて、何もする気がなくなったときだけ、
潔く、やる気が出るまで休む。

というのが良い結果が出るような気がします。

と思って、最近の練習記録を見てみたら、
ここ2〜3ヶ月、全く休養していませんでした。
仕事の日は、夜走ったりで、何か運動しているという感じ。

本当は週に2日ほど完全休養するとよいと思いますが、
やはり動きたいときは動いた方が気分が良い。

なかなかむつかしい問題です。