2016年12月30日金曜日

「煩悩撃退108回・しんぴ倒立」

煩悩撃退・108回しんぴ倒立 from 井手宏幸 on Vimeo.

毎年恒例の108回。
巷のヨガ教室では、太陽礼拝を108回が多いようですね。
考えてみると、アシュタンガヨガの太陽礼拝Aだけでも、相当な運動量だと思います。
普段やり慣れていないので太陽礼拝はパス。

代わりに何かをやろうと考えていたら、
プレスハンドスタンド(しんぴ倒立)108回はどうだろうと考えつきました。

体力的には問題ないと思ったのですが、
なんせ、一瞬、結構な負荷がかかる。

だめだったら途中でやめよう。
というお気楽な感じでスタートしました。

2〜3回やったら一分くらいのインターバルというペースでしたが、
意外や意外、調子が悪かったのは最初の方だけ。

回が進むにつれて、身体が本能的に楽なポジションを探してくれて、
楽に回数を重ね、3時間程度で終了しました。
全く汗はかかず、結構省エネなプレスハンドスタンドが、
この108回だけで身についたと思います。

競泳をやっていたころに、月に一度は1500mを結構なハイペースで2本泳いでいましたが、疲れが限界にくるころに、身体がその限界に順応して、考えないでも、楽な泳ぎになっていたことを思い出しました。

108回は極端ですが、たまには、4〜50回の練習も効果的だと思いました。

余興でやった108回でしたが、とても得るところが多かったと思います。



2016年12月28日水曜日

「段々下手になっていく」

スポーツやヨガだけでなく、例えば、私が職業にしている写真もそうですが、
練習をやればやるほど、作品を撮れば撮るほど、下手になっているのではないのか?
と思うことがよくあります。

そういう時は、自分の上達の事しか頭になく、
自分に対する要求が厳しくなっている時です。

しかし、実は上達していることが多いです。

しかし、困ったことに、

あるアーサナや技が上達すると、それ以上、上達しているのではないのか、という妄想を持ちやすくもなります。

これは悪いことではなく、良い側面を持っています。

もし、

上達を自覚したことで、満足すると、そこで止ってしまいます。

しかし、

あまり妄想を持つのも落胆が大きい。

そういうときは、誰か信頼のできる人に客観的に観てもらうか、
この写真のように、具体的に上達状況や問題点を明らかにした方が良いと思います。

コーチや指導員の指摘も的を得ていて有益なことが多いですが、
それは、あくまで、主観的なもので、過度の信頼はしないようにする。

そして、

例えば、カメラチェックで、現実を自分の目で見てみる。
ということが大事だと思います。

具体的に自分のハンドスタンドがどの程度のものか?
4つの点が、理想の垂直線上にあるのか、チェックしてみました。

これで、今後の練習課題や意識の持って行き方がよく分かりました。

スマホ、タブレット、コンパクトデジカメ、
現代は、セルフプラクティスを効果的に行う機器に恵まれています。

是非、自撮りで、自分のポーズをチェックしてください。

とても得るところが多いと思います。


2016年12月27日火曜日

「みんな何か抱えている」

Instagramで、国際的に有名なアシュタンガヨガの指導員キノ・マクレガーさんをフォローしている関係で、アシスタントのSさんもフォローすることにしました。

Sさん、まだ20代でしょうか。カールしたヘアが可愛い、ちょっと太めの美人さんです。

彼女も有名人なので、私の方が主に彼女のフィードを読んでいるのですが、
Instagramにしては、長文の書き込みが多く、時々目を通して、

あっ、これはちょっとメンタルに何か抱えているな。

と気が付きました。

というのも、私もそうだったからです。

私は、アメリカに居た1990年頃に、友人の精神科医からアスペルガー症候群だと診断されています。簡単なテストと問診ですぐに判明しました。

友人の医者からは、心配することはない。これは病気なんだから。
人格とか性格とは関係ないと思って良い。

と言われ、凄く気持ちが楽になった記憶があります。

というのも、それまでに、日本で、子供の頃から性格が悪いとか、人格障害があるとか親からも言われていたからです。

自分でもそれが分かっていたので、もう、中学生の頃から、将来は一人でできる仕事に就くということは決めていました。とてもじゃないけど、組織は務まらないと思ったからです。

回りから理解されない、誤解されるとトゲが出てきます。
何かに付けて反発したり、人と違ったことを敢えてやったりしていました。

それで、こもってしまう人もいますが、
私は、とにかく突っ張ってパンクな生き方をしていました。

Sさんも、そんな何かを抱えていると、ピンときました。

先日、私の誕生日にInstagramに、英語で簡単に、自分の過去を書き込みました。ひとつの区切りだと思ったからです。

すると、その日からSさんは、ほぼ每日、私のアップした写真やコメントに反応してメッセージも残すようになりました。

Sさん、お師匠のキノ・マクレガーさんにも、そういう共通項を見つけて、師事しているフシがあって、ある日、お互い、鬱に悩んできてことを告白していました。

彼女が何かを感じてくれた。というのはすぐに分かりました。

私は、キノさんからも、もうすでに、その告白などから、やはり何かを抱えて参っているような感じを受けていました。

もう、何十年も多くのヨギ、ヨギーニと出逢ってきましたが、
敢えて、ヨガを選んでやっている。
というのは、私は、何かを抱えていてそこにたどり着いた。
と言うこともできると思っています。

それは、フィジカルな問題だったり、メンタルな問題だったりします。

流行りや、皆がやっていて気持ちよさそうだとヨガをやる人が出てきたのは、
割りと最近のことです。

Sさんが憑かれたように、難易度の高い、キツイポーズをやっているのを見ると、痛いように気持ちが分かります。

まだ正式の指導員ではないし、大変だとは思いますが、何とか乗り切って生きていって欲しいと思って応援しています。

私としては、この歳で頑張ってハードなポーズをやっている姿を見せることくらいしかできませんが。笑。

Instagramでまさか、こんな出逢いがあるとは思いませんでした。





2016年12月25日日曜日

「真っ直ぐに、一直線に!美しい倒立」

ポーズ中の無理のない美しいジオメトリーは、
ヨガでも体操でもサーカスアートでも共通です。

ヨガに、このハンドスタンドが取り入れられたのは、20世紀中頃になってです。
それまでは、頭立か三点倒立が主流でした。

おそらくハンドスタンドの起源は、ヨーロッパのサーカスアートだと思います。
もっと辿れば、大道芸あたりでしょうか。

ハンドスタンドには様々な形態がありますが、
このストレートハンドスタンドが基本のキホンです。

このハンドスタンドで食べている、サーカスアートのマスターが、
とにかく、ハンドスタンド、アームバランスのキモは、
手首、肩、腰、足首が、一直線になっていること。

この一直線が、一見ハードなアームバランスを楽にする。
そして、それを体得するベストな練習は、この頭頂部を床に向けたハンドスタンドだ。
とアドバイスしています。

確かに、ブルクシャサーナを頭頂部は天ですから、
アドムカブルクシャサーナは、頭頂部が地に向かっているのが自然です。
姿勢を逆転しただけですから。

で、今後は、この頭頂部を地に向けたアドムカブルクシャサーナを基本として練習していきたいと思っています。

しかし、これが実に難しい。涙。

ハンドスタンドマスターでさえ、倒立では、一直線の倒立が一番やっかいだ。
と認めているくらいです。

先日の練習の写真では、手首、腰、足先を結ぶ線はほぼ一直線になっていますが、
肩のポイントが前に行っています。

これは、頭頂部を地に向けている慣れないポーズために、腕を若干曲げてバランスを取っているからだと思います。

まだまだ、バランスをキープすることに意識が向かいすぎているので、
肩に体重を乗せる意識が着いて行っていません。

練習は続きます。



2016年12月23日金曜日

「恐怖のインテツ(インド哲学)」

先日、我が家で仲間内の忘年会を楽しみました。
そこに居た、元共同通信社の辣腕ジャーナリストのUさん(65歳)に、たまたま、
「最近インド哲学をかじっている」
と話をしたら、Uさんの表情が変わりました。

Uさん、一時期インドやアフガニスタンにも取材歴があって、インド人の政府関係者ともコネクションがある方です。

以前アップしたブログ記事にも書いたのですが、
私が高校〜大学にかけて(1960年代〜70年代)、文学、歴史、哲学を目指す学生の間で、
インド哲学が流行したことがあります。

インド哲学=インテツ
と呼んでいました。

特にUさんの世代にはインテツにハマった人が多く、
当時早稲田の学生だったUさんの同級生二人もインテツを専攻して、
インドに渡ったそうです。

ところが、

二人とも、その後、精神病院に入院してしまって、廃人同然になったそうです。

伝え聞く所によると、あまりのインド哲学の不可解さと、混沌に混乱してしまって、
精神状態が異常になったとか。

ちょうど同時期にチベットに仏教哲学を学びに留学した同僚とは対照的だったそうです。

Uさんの話によると、インド哲学でおかしくなった人は多いとか。
「井手さん。インテツだけはよした方が良い」
とまじに忠告されてしまいました。

私はまだ、ヒンドゥー教やそのバックボーンのインテツについては、表面をざっとさらったような状態ですが、それだけでも、この世界がケイオス(Caos・混沌とした状態)なのがよく分かります。

乱暴に言えば、皆言っていることが違う。
しかし、言っていることが皆違うということを知っている。

多分、同じ宗教的価値観のもとでも、それぞれの世界観、宇宙観が違う。
すなわち、多数の宇宙が存在しているような状態なのだと思います。

先日ベナレス(バラナシ)の宗教祭の映像を見ましたが、それが凝縮されていました。
撮影していたアメリカ人フォトグラファーが「Caosだ。それ以外に言葉が見つからない」
と言って呆然としていました。

人間は自分が感じる世界に生きていて、人が感じるところの世界には生きていません。
自分が考え感じることが全てです。
皆が世間だと思っている世界は存在しません。
自分がそれを自分の感じ方で認識したときに初めて世間という世界が広がります。

自分の回りの世界は、自分がそれを認識するまで存在しない。
認識して初めて存在する。

私の目の前のMacは、私がそれをMacだと認識するまでは、存在しない。
ということです。

私もそう思います。

それを最近、オーストラリアの物理学チームが科学的に証明しました。

このことをインドの宗教観世界観に当てはめてみると、
その混沌が分かるような気がします。

翻ってチベット仏教になると、
仏陀の宇宙観が厳然として存在し、多くの仏教徒が、その宇宙観にアクセスして、
できるだけ共通の認識を持とうとしているのが分かります。

その共通の認識をできるだけ明瞭化するために、
若い頃から問答修行などで、仏教体系に対する理解を深めています。

そこが、ゴータマシッダルタ(仏陀)の教えがヒンドゥー教から発展して世界的な一神教になった理由のひとつだと思います。

しかし、世の中は、ケイオスと暴力に溢れている。と認識すると、
インテツの諸々の世界観は、自然だと思います。

そこから逃れるために、心の平和を得るために、分かりやすい教えを伝えるために
仏陀がこの世に送られてきたのだと感じています。

仏陀は内なる自分に神を求める、平和を求めるように説いています。
自分の心が平和になると、その自分が認識する外の世界も平和になります。

ですから、前述の物理学チームの証明したことと整合性があります。

仏陀とヒンドゥ教の関係は、最後までユダヤ教徒として生きて、磔になったジーザスとユダヤ教の関係に似ていると思います。


2016年12月22日木曜日

「ハンドバランスの基本の基本」

Straight/Hollow handstand pracitce from 井手宏幸 on Vimeo.

通常のハンドスタンドは、視線は床に向かっていますが、
その視線を徐々に移動して、頭を床に向けて、視線を床と並行にします。
シールシャーサナと同じ視線の向きになります。

これを、Straight/Hollow handstandと言います。
日本語では呼び名がないようです。

このハンドスタンドはハンドバランス(シルク・ドゥ・ソレイユなどの曲芸アート)の基本の基本と言われて、ハンドバランサーは必ず練習しているテクニックです。

このハンドスタンドは通常の視線が床に向かっているものより、
はるかに身体が一直線になり、身体の骨格に全体重がきれいに乗るので、
とても楽です。

実は、ずっとこのハンドスタンドはご無沙汰で、
先日昼、Instagramフレンドのmikaさんが練習しているのを動画で見て、
刺激を受けて、夕方海岸で撮ったものです。

自分の記憶にある限り、最後にやったのは、小学校の頃だったので、
多分、無理だろうと思って、トライしたら、
あっけなくできました。

やり方は、通常のハンドスタンドから頭を徐々に床に並行に戻していきます。
立ってバンザイした姿勢をそのまま逆転した格好になります。

通常のハンドスタンドと、こうもバランスの取り方が違うのか。
というのが新鮮でした。
身体の使い方もシールシャーサナと同じような気がします。

シールシャーサナも、腕以外は、このストレートハンドスタンドと体勢は同じです。

バランスは通常のハンドバランスよりシビアですが、
バランスがとれると、あまり力が必要ではなくなります。

まだ、不安定でゆらゆらしていますが、一瞬静止できました。笑。

これは、ヨガのアーサナを安定させるためにも、すごく練習になると思います。
これからも、練習メニュに取り入れたいと思っています。

ちなみにStraight/Hollow handstand のHollowは、
凹むとか言う意味で、これはヨガのウッディヤーナバンダのことです。

呼び方が違うだけで、身体の使い方は同じです。



2016年12月21日水曜日

「アシュタンガヨガの謎」

アシュタンガヨガは、私が今までヨガの世界を見てきて、
かなり特殊で、謎のある、魅力的なヨガだと感じています。

日本には、ヨガ研究者やヨガの歴史家が少ない。
というか、あまりメディアには出てこないのかもしれませんが、
研究書や論文が少なく、どうしても海外の文献や資料に目が行ってしまいます。

WikiのAshtanga_vinyasa_yoga
にこうあります。

https://en.wikipedia.org/wiki/Ashtanga_vinyasa_yoga

マンジュ・ジョイス 師によると、
パタビ・ジョイス師は、アシュタンガヨガのシーケンスを、
クリシュナ・マチャリア師から学び、

クリシュナ・マチャリア師は、師のグルであるバラマ・リシ師(Varama Rishi)から学んだとされ、その指南の書は、ヨーガ・クルンタ(Yoga Krunta)と呼ばれたとあります。
これが、実質、アシュタンガヨガの核となるものだと想像されます。

そして、

アシュタンガヨガのヴィンヤサは、インドの格闘家(カラリパヤット)と大英帝国の器械体操選手から、その練習方法を取り入れたとあり、
その文献的な証拠として、20世紀初頭の「フィジカルジャーナル」(体操の機関紙?)には、クリシュナ・マチャリア師のアーサナシステムにとても似通ったポーズが沢山掲載されている。とあります。

時系列的に言うと、体操やカラリパヤットの方がクリシュナ・マチャリア以前の話しです。

そして、スーリヤナマスカラ(太陽礼拝)のフローは、後にクリシュナマチャリア・マイソールシステムの基本となったが、
その頃はヨガのアーサナとは見られていなかった。
とあります。体操だと見られていたと考えるのが自然だと思います。

だからかも知れませんが、古参のハタヨギは太陽礼拝はやりたがりません。
B.K.Sアイアンガー師も、お弟子さんもやっているところ見たことありません。
アイアンガー師もクリシュナマチャリア師の弟子のときは、
やらされていたとは思うのですが、そこが面白いところです。

私が古参のヨギから直接、聞いた話だと、スーリヤナマスカラは、スウェーデン体操かデンマーク体操をアレンジしたものだと言っていました。

ですから、ヨガの呼吸法を取り入れたとは言え、
現在のアシュタンガヨガのヴィンヤサは、前述のヨーガ・クルンタに、
西欧の器械体操とカラリパヤットを取り入れたものだと思います。

それは、私にとっては、とても新鮮で、アシュタンガヨガがどんどん発展した理由のひとつだと思います。

Wikiには、1970年代にパタビ・ジョイス師の弟子だった女性(多分最古参)が、当時、師から学んだヴィンヤサと現在行われているヴィンヤサは別物だ。
と指摘されていますが、記録フィルムを見ると、シーケンスの中にハンドスタンドはありません。
逆転系は三点倒立かエルボースタンドまたは、頭立です。

もちろん、器械体操の床運動で有名な、ロシアンレバー(V sit)からハンドスタンドに持っていくシーケンスなどもありません。

これら、アシュタンガヨガに見られる多くの器械体操(床運動)のテクニックは、多くの身体能力に優れた欧米系のヨギがマイソールに集まるにつれて
取り入れられたのだと思います。

興味があるのは、Instagramで欧米のアシュタンギ(先生クラス)が、結構、思い思いのシーケンスで練習をやっていることです。
おそらく生徒に教えるときは、厳格にメソッドを守っていると思いますが、
誰かが面白いシーケンスをやりだすと、それが、次第に取り入れられてくると思います。

ですから、アシュタンガヨガは常に発展するモダンなヨガだと思います。

2016年12月19日月曜日

「ヴィンヤサは自由に楽しむ」

アクロヴィンヤサ from 井手宏幸 on Vimeo.

本日12月19日、私の誕生日です。笑。

仕事の後、家で本でも読んで静かに過ごそうと思っていたのですが、
この時期にしては穏やかな天気に誘われて海岸でヴィンヤサやりました。

ヴィンヤサ、いろいろあります。

自分が知る限りでは、
BKSアイアンガー師のヴィンヤサが世界で最初にメジャーになったと記憶しています。
アシュタンガヨガのヴィンヤサがメジャーになるずっと前の話です。

ヴィンヤサに決まりはありません。
アメリカでは、多くのヨギが、自分流にヴィンヤサをアレンジして楽しんでいます。

私的には、ヴィンヤサはアドリブでも良いと思っています。
その時の気分でいろいろ変える。

これは、世界的なハタヨガのグル、セティンタス師のヴィンヤサからヒントを得て自分流にアレンジしたヴィンヤサの一部です。

ヴィンヤサはリズムだと思います。
自分の身体の躍動を思いのままに反映する。

できれば、大自然の中で楽しむ。

ヨーガをやっていて良かった。
と思う一瞬です。


2016年12月17日土曜日

「瞑想と幻覚・幻聴」


名画「レナードの朝」(原題Awakening)の原作者、オリバー・サックス博士(脳神経外科医)が、幻覚、幻聴について面白い研究をされています。

博士は昨年亡くなりましたが、ユーモアがあり、芸術を愛し、とても愛すべきキャラクターの方で、私は大ファンでした。

TEDに講演が記録されていますので、興味のある方はご覧になると面白いと思います。

博士は幻覚と幻聴について長年研究されていましたが、
博士の凄いところは、その膨大な臨床例に基づいた研究をされていたことです。

具体的には、精神疾患や幻覚や幻聴で入院した多くの患者と対話することによって、
幻覚や幻聴の正体というものを追求されていました。

博士は、人間が、目が見えなくなったり、弱視になったり、耳が聞こえなくなったりすると、脳が、それらの疾患で欠けた情報を補うかのように、欠けた情報を補完したり創り出したりする。それが、幻覚・幻聴の正体だという仮説を持っておられました。

例えば、脳腫瘍が出来て、視神経を圧迫して弱視になりと幻覚を見るそうです。
これは晩年、目のガンになった博士自身の体験でもあります。

そして、その脳腫瘍が出来る場所によって、見る幻覚は共通するそうです。
例えば、ある場所にできると、チャイナ服の女性や、口が裂けた人間の幻覚を見るとか。

実は、私は幼少期に、公害で、薬物に脳をやられてしまい、左耳の聴力がゼロです。
高熱が続いたために、頻繁に幻覚・幻聴を経験しましたが、
幻覚ではすまされないような経験もしました。

そして、博士の理論を裏付けるかのように、聞こえない方の耳を補完するような
幻聴が続き、今では、もう慣れてしまいました。

特に仕事で、カメラのファインダーを覗いて集中しているときは、頭にある音楽が繰り返し鳴っています。
それは、時期によって違いますが、年間を通じサイクルしています。

多分、博士が研究されたように、ファインダーを覗いて集中するということは、脳のある部分に大きなストレスを与えるわけで、それがトリガーになって、聞こえない方の耳の情報を補完する意味で、幻聴を発生させているのかもしれません。

そういう説明も成り立つと思います。

そして、長年、黙想、瞑想をやってきて、感じるのは、
長時間の瞑想という特殊な環境では、幻覚や幻聴が発生しやすいということです。
特に、エキスパートになるほど、それは顕著になるような気がします。

瞑想は、目を閉じて暗闇の中です。視力がなくなる状況です。
集中してくると、音は入ってきているのに無音という状態になります。

そして、

次から次へと湧いてくる様々な雑念を、かわして、無になる状態に近づいて行きます。
それ自体が、実は、かなり特殊な神経の使い方をしていると感じています。
つまり、リラックスしているようで、実は脳に対してはストレスになっています。
長時間、非日常的な状態を続ける。それは紛れもなくストレスです。

そういう状況下では、幻覚、幻聴が特に発生しやすいと思っています。
これを、悟りや啓示だと勘違いするヨギが昔から数多くいました。

子供の頃から幻覚、幻聴が日常だった私には、
ああ、勘違いしているな。
とすぐに分かりましたが、
言うと傷つくので黙っていました。

しかし、面白いことに、最近、共通する幻覚があることに気が付きました。
ある雑誌の仕事で出会った、ヨーガ歴50年を超えるヨーガの先生(女性)に、こう言われました。

「井手さん、瞑想中に、暗闇の中に青い結晶のようなものが見えるよね?」

私は、びっくりしました。
実は、50歳を過ぎた頃から瞑想中にそれを見るようになっていたからです。

瞑想すると、目は閉じていますが、
私の場合、広々とした漆黒の宇宙空間が目の前に広がります。
それは、立体的で奥行きがあります。

50歳ころまでは、その暗闇を見ているとオレンジ色の炎が見えていたのですが、
ある時期からそれがブルー、コバルトブルーになりました。

「ええ、見ます」!と驚いて答えると、
先生は大満足したように、黙って微笑んでおられました。

私は、チャクラという概念も瞑想中に受ける啓示のようなものも、
全ては、瞑想という特殊な状況が、脳に与える、ある刺激が連続することによって、
脳が創り出したり、補完したものだと考えています。

それらは、全て、自分の内側の問題で、外からやってくるものではないと思います。
もちろん、その刺激は外側からやってきますが、受け取る自分、具体的には脳がそれを解釈して自分の内部の宇宙で、幻覚や幻聴を展開するのだと思います。
啓示だと思われることも、実は、自分の中で起こっていることです。

ただ、それでは説明ができない事象もあります。

マザーテレサの啓示の例もそうですが、
それは、稀有なアンテナを持った、ごく少数の人間に起こることだと思います。
しかし、そういう外からのシグナルを、受け止めることが出来る。
ということは、自分の中の脳の領域の問題だと思います。

キリスト教の世界で、「100人クリスチャンがいると100通りのジーザス像がある」
と言われますが、まさに、そのことわざがそうで、

同じ聖書を読んで、説教を聞いて、聖歌を歌っていても、
自分の中にあるジーザス像や、その言葉に対するイメージはみなそれぞれに違い、解釈も違います。
そして、解釈によっては、熱心なクリスチャンであるのに、実に不幸な人生を歩む人も少なくありません。

それは、ジーザスという存在が外に存在するのではなく、
様々なジーザスが自分の中に存在していることと同じです。

ここでも、人間は自分が感じる世界に生きている。と思います。
常に主語は自分だと思います。

(追記)
チベット仏教では、瞑想中に雑念が湧いてきても、それらを湧いてくるがままにして放おっておくそうです。私は、その方が、脳に対しての非日常的なストレスを与えない、自然な方法だと思い、私も、最近では、雑念は湧くに任せています。
すると、面白いことに、雑念が湧くことに慣れてしまい、逆に、雑念を感じないようになります。
チベット仏教は、5つの宗派がありますが、佛教体系は全ての宗派同じです。
独特の問答修行も含め、最も科学的な佛教だと思っています。

2016年12月16日金曜日

「気分が教えてくれる」

現在の自分は、過去の自分の総決算です。

自分をさらに高めたいと考えたとき、
過去は過去ですが、それをまず認めないといけないと思います。

では、過去の自分が現在の自分にどう関わっているのか?

ちょっと乱暴な言い方ですが、単刀直入に言うと、
それは、それまでの「自分の決断」が現在の自分を作っていると思います。

自分の記憶をたどると、今の自分に至る大事な局面で、
誰でも、ある選択と決断をしています。

どの大学や専門学校に行こうか?
どんな職業を選択しようか、
何をして生きて行こうか。

この人と結婚をしてよいものか、
海外に行くチャンスがあるがどうしようか。等など。

これらの局面で、必ず決断をしているはずです。

あと、細かいところでは、住宅ローンを組もうか?とかいろいろとあるはずです。

この「選択」ですが、
私が、ヨーガの沖正弘師の著作で、とても感銘を受けた件があります。
確か、私がヨーガを始めてすぐでしたから、22歳ころだったと思います。

それは、

「何か大きな決断をするときに、自分の気分を大事にしなさい。
もし、誰が考えても右に行った方が良いと分かっていても、
気分、感情が、それはよした方が良いと訴えることがある。
その時は、迷わず気分に従って左に行った方が良い結果になる」

というような内容でした。

実は、私は昔から気分屋で、それで失敗したこともありましたが、
なんとなく嫌な気分の時は、沖先生のおっしゃるように、自分の気分に従っていました。
それで、良い結果になることが多く、悪い結果になることはほとんどなかったので、
やはり!
と納得した記憶があります。

そして、それは確信になりました。

この何となく嫌な気分は、実に当たります。
人のアドバイスなんて、無責任極まりないものです。
一応、参考程度に聞いてみることはありますが、まず、あてにはなりません。
あてにしてもだめです。

私は自営業ですから、定期的に続けている仕事もありますが、大体、日雇い状態です。
そのつど、いろんな仕事の依頼をこの「気分」によって、受けるか、受けないかを判断してきました。
その判断が、致命的な結果をもたらすこともありますし、
その後の自分の進む方向や、自分への評価へ大きく繋がってきます。

例えば、プロとしてスタートする際に、コマーシャル分野をターゲットにするのか、雑誌書籍をターゲットにするのか、
で大きくその後の進路と自分のスタイル、自分に対する回りの評価は分かれてきます。

乱暴に言えば、コマーシャルをターゲットにするのは、お金のため。
雑誌は、自分のスタイルで撮って、名を売るため。になります。

余談ですが、コマーシャル関係は人間のできた協調型の方が多く、雑誌書籍関係は、俺様タイプの我儘な方が多いです。笑。

コマーシャルにはクレジットはつきませんが、雑誌書籍ではクレジットがつきます。
それで、作家としての名前が売れていきます。

一般にコマーシャルの方がギャラのゼロがひとつ多いですから、
よほど才能に自信がないと、雑誌関係には進みません。

しかし、自分にとって、コマーシャルでずっとやっていく。なんて考えられなく、それはとても気分の優れない感じがしたので、
迷わず雑誌書籍関係をターゲットにすることにしました。

そして、その後もコマーシャルの仕事はチャンスはあっても避けてきました。

それは、結果的に良かったのですが、50歳頃に思わない伏兵が現れました。

その頃自分は事務所を株式にして仕事をしていたのですが、自分にとってカラーの違う仕事をもちかけられました。
クライントは誰一人知らぬ人はいない大企業だったのですが、私は、それを受けてしまいました。

その時のことをよく覚えています。

もう50を過ぎたので、将来、楽に、安定して生活するために、お金が沢山必要だ。
という気持ちと、ちょっとそれは自分には合わない。受けるべきじゃないだろう。という嫌な気持ちが2つありました。

結局、それを受けた結果、私の会社は破産同然になりました。

原因は言い出せばきりがありませんが、結局、自分の決断が一番の原因です。

こうやって、その時の決断をいろいろと自分なりに分析するのは有意義だし、その後の決断に良い結果をもたらすと思います。
ただ、後悔だけはしない方が良いと思います。

後悔すると「過去に生きる人間」になってしまい惨めです。

それは自分の責任であって、それで勉強した。
と嫌な感情は忘れてしまうのが良いと思います。

この「なんとなく嫌な気分」ですが、実は、これは誰にも備わっている能力だそうです。
野生動物が人間にない超能力で危険を察知して回避する力が、進化して、同じように備わっているという説があります。

誰かに初めてあったときに、いろいろと話をしてみて「なんとなくやな人!」
と思った経験は誰にでもあると思います。
それが、「なんとなく嫌な気分」の正体です。

2016年12月15日木曜日

「マインドフルネスは諸刃の刃?」

私がヨーガを始めて約10年後に、
あるヨーガの先生から、「ヨーガには深入りしないほうが良い」。
とアドバイスを受けました。

今から約30年ほど前の話しです。

その方はお父様もヨーガの先生で、生まれてからずっとヨーガに囲まれた生活をされていた方です。

それはなぜかというと、特に私のようなクリエイティブ系の仕事に携わっている人間には、いわゆるマインドフルネスは、創造性を無くする大きな原因になるからです。
クリエイティブの本質は、執着、独断、偏見が混ざったどろどろしたものです。

マインドフルネスを簡単に説明すると、

以下引用
「仏教の教えに根ざしたもので、悟りを開くために大変重要なものだと考えられています。」
引用ここまで

悟りというのは、最後には全てを放棄して解脱するものです。
それは、現実的には、資本主義の現在の社会生活を離脱していくものだからです。

考え方、思想というものは、どんなに、活用しようとしても、その成り立ちからは逃れられません。現実生活に上手く活用しようとしても、必ず、その成り立ちそのものの影響を受けるからです。

そのような影響を受けて、山間や僻地に移り住んだりして、
世捨て人同然になったヨギを数多く知っています。
ただ、彼らの名誉のために言うと、彼ら、彼女らは、それで幸せになったと思います。

ちょうどその頃、NHKの番組で、有名な陶芸家が「禅」について語っていました。
「座禅を組んで瞑想するようになってから、陶芸ができなくなった」。
結局、それは執着心やこだわりが無くなったからだと、結論づけられていました。

ですから、私はそのアドバイスを受けたときから、
瞑想というよりは、黙想に近い訓練をするようになりました。

黙想は調息とセットで行います。
激しい運動の後に、高ぶった気持ちや、身体を鎮めるものです。
これが、私と瞑想との現実的な妥協でした。
というより、瞑想とは別物ですね。

以下引用
MITマインドフルネスセンター所長を務めるジョン・カバットジン博士は、マインドフルネスについて、「今という瞬間に、余計な判断を加えず、(中略)自分の人生がかかっているかのように真剣に、意識して注意を向けること」と定義しています。
引用ここまで

私は、この定義は素晴らしいことだと思いますが、
問題は時間軸です。

○今という瞬間、
○余計な判断を加えない、
○自分の人生がかかっているかのように、

これらの本当の意味が認識できるようになるためには、
ある程度の時間とそれに伴う「経験」が必要です。

それらを経験して、しっかりと認識した状態であると、
このマインドフルネスは有効だと思いますが、
お手軽にマニュアル化すると、
「分かったつもり」の人を量産する結果になると思います。

またまた、情報難民が増えることになると思います。

ある思想なり、考え方、または、訓練方法、または、治療方法などが
効果的なのか?危険な側面がないのか?
それらを客観的に判断するには、20年の年月が必要だと言われています。

例えば、正しく行えば、ヴィンヤサヨガは危険ではない、ケガは少ないと言われますが、
まだ、ヴィンヤサを始めて長い人で30年クラスがちらほら、
20年クラスも少ない状況では、ケガや故障が少ないとは言えないと思います。
統計する対象があまりに少ないからです。

致命的な損傷は、時に10年、20年の蓄積で出てくることがあるからです。

私がシールシャーサナを長い時間やらないのは、それを10年以上続けているベテランで、頚椎に損傷が出来てきた人が報告されているからです。もしかしたら、平気な人もいるかも知れませんが、私にはピンとくることがあって、長くて3分しかやりません。

もともと悟り、解脱を目指すために仏陀が考えだした瞑想法を、安易に資本主義社会生活に応用するのは、私としては、クエスチョンマークです。

もし、ビジネスに活かしたいのであれば、「成功法則」の古典を読んで実行するほうが、はるかに効果的だと思います。

私見ですが、マインドフルネスは一時の流行で終わると思っています。

2016年12月14日水曜日

「成功法則」について

私が初めて「成功法則」というものを知ったのは、約30年前にアメリカに住み始めてからです。

そもそも成功法則は、アメリカのキリスト教プロテスタントから発生しています。

人間は、成功して幸せになるように生まれついている。
幸せになるには、そのために必要な富を得るためにはどうしたら良いのか。
ということを科学的に研究したものです。

日本では、まだデール・カーネギーの成功法則のセミナーしかありませんでした。

私は、アメリカで、テレビや新聞の広告で、そのようなものがあるということを知り、
ナポレオン・ヒルやジョセフ・マーフィー、マックスウェル・モルツ博士の著書を読んで感銘を受けました。

余談ですが、成功法則のジョセフ・マーフィー氏と、確率性の面白さで有名なマーフィーの法則のマーフィー氏は別人です。
日本では混同されています。

アメリカでは、実業家だけでなく、大リーグの選手やNFLの選手などの有名人まで、ごく普通に、この法則を活用していることに驚きました。

成功法則をしっかりと学んだ人に会うと、すぐに分かります。

人の目をしっかりと見て、話しを聞いて、
絶妙な間合いで、意見を述べて、そして考えを展開していく。
そのやり方がとても訓練され、洗練されています。

そして、何より、自分のビジョンをしっかりと持っていて、
目的、目標を持って動いているのが分かります。

私は、成功法則は舟のナビゲーションのようなものだと思っています。
目的に向かって、しっかりとナビゲーションをセットする。

ナビゲーションは四六時中チェックする必要はありません。
要所要所で定期的にチェックするだけです。

しかし、いくらナビゲーションが優れていても、舟がポンコツであると話になりません。
しっかりとした推進力のあるタフな舟が必要です。

しかし、ここが成功法則の所以たるところですが、
いくら舟が優秀でもナビがだめだと、目的地につけないだけでなく、危険な状況にもなります。

日本では、努力して結果を出していれば、そのうち、誰かが見出してくれて、成功するだろう。
というような考え方が支配的でしたが、
私は、全くそうは思いません。

しっかりとした能力と、目的地に辿りつくナビゲーションが両方必要です。

日本でも、創業者で大成功した実業家や、学者、スポーツ選手は、皆、このビジョンを持っています。
調べてみると、知らず知らずに成功法則を実行していた方が多いのですが、
アメリカの凄いところは、それを法則化、マニュアル化したところです。

ただ、「成功法則」の「成功」は金銭的なものだけではありません。

自分が考えるところの「成功」で、自分も人も幸せにするものです。

欧米での成功法則はキリスト教プロテスタンティズムから来たもの。
日本の成功法則は、間接的に仏教や儒教から来ています。

偉大なグル、中村天風師は、日本での成功法則の元祖だと思います。
中村天風師はチベット〜ネパール系のヨーガの大家で、
そういう意味では、ヨーガを成功法則に活用した初めての方です。

私は、一度、自分が感銘した成功法則に出会ったら、
もう、それを愚直に実行するだけだと思います。

私が読んだ成功法則訓練には、共通したものがあり、
自分の目的を短期、中期、長期に渡っていくつか書き出して、
そのために何をするのかを決定したら、あとは何も考えず実行するだけ、法則については放おっておいてもよい。

ただ、途中で大失敗があったときは、修正の必要あり。のシグナルかもしれないので、
立ち止まって考えること。

というものです。

そして、ここが大事ですが、自分の目的を自分の潜在意識に落とし込むには、
每日何度も、想念して、それを繰り返しますが、
人間の潜在意識がそれをキャッチするのに、最低で2ヶ月かかります。

これは、ヨガやスポーツのトレーニングとも似ています。成功法則も同じです。

ただ、成功法則の実行は人によって効果に大きな差があります。

全くだめな人もいます。

それは、人間の土壌ともいうべき、その人の心的な傾向に由来します。

わかりやすく言うと、心配症の人、疑り深い人、ネガティブにばかり考える傾向のある人、常に他人と自分を比較する人には、どんなに忠実に実行しても、ほとんど効果がないどころか、逆効果なところがあると思います。

効果があるのは、それとは全く逆の人です。

ですから、楽天家の方が何事にも成功すると言われるのだと思います。
成功した人は、成功するずっと前から笑顔が素晴らしい方が多いです。


私も約30年前に、自分の目標を具体的に(例えば、どういう雑誌やファッション誌の仕事をしたい)とか書き出して、
每日、それを見ては、その仕事をしている自分を妄想してニタニタしていました。

しかし、しばらくして、忙しくなったりして、忘れていました。

そして、50歳を迎えるころに、ふとそのノートを思い出して、見てみたら、
驚いたことにその約9割はすでに実現していました。

ただ、自分として致命的だったのは、
そのノートに金銭的な成功について何も書いていないことでした。

潜在意識の世界は、それも忠実に実現してくれて、
私には、あれだけ、多くの様々な仕事をしたのに、
なぜか、お金は残っていませんでした。

破産同然になったのも、そういう金銭的なことに無頓着だったからかも知れません。

ただ、それも、自分が望んでいた事かな?
と今では考えています。

結果的に、金銭面では成功はしませんでしたが、
世界中のセレブリティを様々な雑誌で撮ることができて、これまでは、幸せな人生だったと思います。

そういう意味では、アメリカで、ナポレオン・ヒルやジョセフ・マーフィー氏の著作と出会ったことは、
自分にとって運命の出逢いだったと思っています。

成功法則は、それをどう捉えるかです。
楽天家で妄想家、思い込んだら愚直に実行する人。
そういう人には、とても向いていて、力になると思います。

逆に、最初から疑ってかかる人には、何の力も与えてくれないと考えています。

ただ、読み物として、読んでみると面白いと思います。

アメリカの良き時代を感じることができます。

2016年12月13日火曜日

「倒立歩行・逆立歩行」

倒立歩行・逆立歩行 from 井手宏幸 on Vimeo.

倒立、片手倒立をしっかりと身につけるために避けて通れない基本技術が
倒立歩行です。

そして、これができるようになると、重心移動の感覚が鋭くなり、
アームバランス系も楽になります。

この倒立歩行、体育館か、広いフリースペースがないと練習できないので、
なかなか練習する機会がないと思いますが、
もし練習できるスペースがあれば、
遊びでも良いので、トライしてみると、
俄然、バランス感覚が良くなってくるのが分かると思います。

この練習をやる前提として、
最低でも10秒ほど倒立ができることと、
バランスを失った時に、側転、前転で回避できないと危険です。
できれば、最初はマットを敷いた方が良いと思います。

最初はさそりのポーズのように足を曲げて身体を反らせるとやり易いと思いますが、
身体を反らせると、肩に体重が乗らず、筋力が必要になります。

逆に、身体をできるだけ垂直にすると、肩に体重が乗り楽にはなりますが、
バランスの取り方がシビアになります。

倒立歩行、ずっとご無沙汰だったのですが、
最近、倒立系、アームバランス系のバランス感覚が甘くなったので、
再び始めました。

Instagramで、世界のヨギたちを見ると、先生も生徒も、
屋外で、いろんなアーサナをいろんなアイデアで楽しんでいます。

眦を決して、スタジオで集中するのも良いですが、
自分でいろいろと楽しんでみるのも、上達の秘訣です。

私は、何の世界でも、「遊び」からクリエイティブなものが出てくると思っています。

2016年12月12日月曜日

「ストレート・ハンドスタンド」

ストレート・ハンドスタンド from 井手宏幸 on Vimeo.

倒立(ハンドスタンド)は、一般に、まっすぐに立ったストレートハンドスタンドとカーブがあるバナナ・ハンドスタンドという分け方をしますが、
どちらが良い悪いではなく、
両方使い分けると良い。という意見がサーカスアートの世界ではあります。

体操は、少しでも身体が反ったら減点0.1ですから、
とにかく真っ直ぐに真っ直ぐにと意識を集中します。
カーブのついた倒立はもちろんありません。

倒立を多用するアシュタンガヨガでも、名人ジョン・スコット氏のアドムカブルクシャサーナは真っ直ぐですが、もちろんサソリのポーズではカーブします。

意見を総合すると、基本練習としてストレートハンドスタンドをしっかりとやって、
その上で、いろんなスタイルを使い分ける。
ということになりそうです。

しかし、このストレートハンドスタンドというのは、体型や柔軟性も絡んでくるので、
本当に難しいと思います。
カメラの連続撮影で撮っていると、ストレートを2〜3秒キープするのはなんとかできますが、この動画のように約30秒、全てストレートをキープするのは至難の業です。

後半身体が反ってくるというのは、筋力不足、もしくは、ちょっとした集中力の途切れ。
これを来年の9月までには、なんとかしたいと思っています。

このちょっとしたことが、様々なポーズやアーサナの大きな進歩に繋がると思っています。

2016年12月11日日曜日

「左右の傾き」

しんぴ倒立・ストラドルプレスハンドスタンド from 井手宏幸 on Vimeo.
ハンドスタンドの姿勢やバランスを見るために、
ビデオ(iPad4カメラ)で撮影したものを約3倍にコマ送りしてチェックしました。
約30秒強のキープですが、
コマ送りにすると、傾きなどが、よく分かります。

先日、鍼灸で左右の足の長さを揃えてもらったことをレポートしましたが、
その結果、ひどいO脚も改善されているのが分かります。
まだ、曲がっていますが、
每日、矯正しているので、徐々にまっすぐになっているようです。

そして、やはりと言うか、
左右の腕の力の差が傾きに出ています。

利き手の右に対し左腕が弱いので、左に傾いています。
これは、ハンドスタンドやアームバランスでは、ちょっとまずいし、
先日久々に練習した倒立歩行では、徐々に進行方向が左に傾いてしまいました。

左手を支点にしたアームバランスで鍛え直さないといけない。
と、考えて今朝からまたキツいアームバランスを始めました。

練習というものは、これでいいか!と思えば、それでも構わないのですが、
そこで終わったら、それまでで、進歩を諦めたという感じがしてどうも気分が悪くなります。
性分かもしれませんが、自分なりに限りなく上を目指したいと思っています。







2016年12月10日土曜日

「腐らないで枯れる」


以前、近所に無農薬無肥料の自然栽培の農家があって、
そこで野菜を買っていたのですが、
引っ越してしまったので、
ネットで信頼のできそうな農家を選別して、
無農薬、無肥料の米と野菜を購入しました。

先日到着して箱を開けたところです。

平成7年の冷害で、日本の稲作のほとんどが大被害を受けて、日本の台所事情がピンチになりましたが、全く被害を受けずに例年どおりの収穫量があった地域が各地にあったそうです。

それらは、例外なく、無農薬、無肥料の稲作地域だったそうです。
結局、枯れたのは、化学肥料や有機肥料の助けを借りないと育たなかった稲で、農薬で土の微生物が死んでしまい、土地がやせ細ってしまい、生命力が無くなっていたわけです。

もちろん、美味しさはあるのかもしれませんが、
全く稲自体が抵抗力のない、食べても、あまり栄養にならない稲が多いということが言うことができると思います。

炭水化物ばかり食べていると栄養が偏る。

と言われますが、
私は、そもそも炭水化物の代表と呼ばれる、米やイモ類に栄養価がなくなったのが原因だと思っています。
もちろん、白米と玄米や五分つきの米では栄養価が全く違いますが。

野菜も、私が子供の頃は、庭の畑で栽培していました。
もちろん、農薬は使わないし、肥料は、枯れた草を積んで堆肥にしたものをそのまま使っていました。
秋になると、鈴虫やコオロギが沢山住み着いて賑やかでした。

そこでとれたトマトは、今流行りのフルーツトマトのように糖度の高い甘いものではありませんでしたが、本能的に、生命力のあると分かる、独特の野菜の匂いと酸味がありました。

ですから、甘いトマトは不自然で、ちょっと抵抗があります。
食べても身体が元気になる。という実感がないのです。
ただ、甘いだけ。

肥料を使って栽培した野菜をそのままにしておくと、腐ります。

しかし、

全く肥料を使わず土地本来の微生物だけを頼りに栽培された自然栽培の野菜は、腐らないで、枯れます。

この腐る。ということと、枯れる。ということの差は大きいです。
腐るということは、それだけ不自然な養分を吸い込まされている。
ということで、
何千万年も野菜類は、原種の段階から、肥料などを与えられることなく進化してきたわけですから、
生物学的に、肥料を与えられた野菜は不自然なわけです。

基本的に、農家のひとたちは、自分たちの栽培した作物は食べません。
まあ、化学肥料を与えて、農薬をふんだんに散布した作物は、誰だって食べたくはないと思います。家族用の畑がある農家は多いです。

先日アップした記事にあったように、アメリカの大規模畜産農家の人が、肉を食べなくなったのと同じことです。

私が以前、野菜を購入していた農家の方は、
掘り出した人参の皮をさっと剥いて、その場で齧っていました。
もちろん、自分用の野菜と出荷の野菜は同じです。

本来、こういう農家が当たり前だったのですが、
なんでも大規模になると弊害がでてきます。

私のように、菜食ということを考えた場合、
このような、無農薬、無肥料、の自然栽培の米と作物というのは大前提です。
でないと、あっという間に、栄養不良になってしまうと思います。

アメリカのベジタリアンやヴィーガンも、食べるもの以上に、
作物の素性にこだわります。
見せかけの美味しさではなく、生命力を与えてくれるものか?
ということだと思います。

日本ではこれらの無農薬無肥料の野菜や米は通常の価格の大体3割増くらいでしょうか。

しかし、これはプライオリティ(優先順)の考え方の問題で、
何を選択するかです。何を大事に考えるかの問題です。

私の場合は、無駄に思える呑み会などは一切断わっただけで、
その差は簡単に埋められました。
それに、不健康になった場合のマイナス。
治療代、病気になったときの事を考えると安いものです。

私は、病気になって仕事ができないと、収入が無くなります。
生活ができなくなります。
これは、フリーになったときから常にある危機意識です。
どんなに稼いでいたときにも、この危機意識がありました。

ですから、全ては健康で働けるためには、どう危機管理したら良いのか?
に意識が行っています。

最近、ネットで、評判の良い、自然栽培農家のサイトを覗くと、
売り切れが多いのに気が付きます。
ネット時代になって、こういう知識が広まり、健康意識が高まっているのだと思います。

あなたは、あなたの食べるもので出来ている(You are what you eat.)
という言葉があります。

まさにそのとおりだと思います。

2016年12月8日木曜日

「フリーランスのビジネス」

ビジネスモデルというものがあります。
どういうポリシー、計画、形態で、ビジネスをやっていくのか?
という指針のようなものです。

これは、大企業でも自営業でも同じです。

私がNYCで仕事をやっている頃に体験した面白い話しがあります。

ある雑誌の編集者に、
「あなたの担当しているこの本は、約30名以上の編集スタッフで構成されているが、日本では、例え大出版社でも10名にも満たないスタッフで運営すると思う」。
と言いました。

すると、彼は、こう応えました。

「もし10名でやらないと採算がとれない本だったら、そもそもビジネスモデルが間違っている。我々はそういうビジネスはやらない」。

この考え方は、日本の多くの事業に言えると思います。
もちろん、彼が言うようなポリシーで、成功している企業や自営業も日本には、あります。

しかし、それらは例外で、大成功している会社です。

要は、十分なスタッフで、しっかりと、休みもとれて、人間らしい生活ができるビジネスでないと、そもそもやらない。
そうでないビジネスモデルでないと、やっても長く続かない。

ということだと思います。

しかし、彼が言うようなビジネスモデルは、
他にはない競争力が不可欠です。

結局、他にはない、なにか特別なもの、人から必要とされるものがないと、仕事というものは成りたないのだと思います。

そうでないと、しわ寄せは、価格や、社員(個人)の過当労働に行ってしまいます。

私の知人で、中小企業再生のカリスマ・コンサルタントがいますが、
彼は、「中小企業、自営業で、値引き競争に入ってしまって、生き残った会社、個人は皆無だ」。
と語っていました。

私の仕事であるフリーランスのフォトグラファーも全くそうで、
私は誰より安いです。
というポリシーで生き残っている人はいません。

安くやると、一時的に仕事は増えますが、
ただ、ギャラが安いフォトグラファーとして見られて、
若い、もっと安いギャラでやるフォトグラファーが出てくると、
すぐに仕事はなくなります。

技術はそこそこで、人間的にとても素晴らしいが、没個性。
というフォトグラファーもなかなか生き残れません。

やはり、キーポイントは、「他にはない何か」。
一度目にしたら忘れられない個性。
優秀な技術はあって当たり前の世界です。

企業も個人もこれがないと、ビジネスは一時的に成功しても長くは続かないし、
最初は儲からなくても、「他にはない何か」を積み重ねていくのが
長くやっていく王道だと思います。

この「何か」が何なのかを知る。ということが一番やっかいで時間がかかります。
しかし、それは回り道のようであって、それを知ったら半分は成功したようなものだと思います。

2016年12月6日火曜日

「お金を崇拝する」

多分、私のブログを読んでいただいている方の世代より前のことだと思いますが、
日本が、高度成長期〜バブル期にあって、年功序列、終身雇用だった時期は、
誰もが、ただ、会社に努めていたら一生安泰だ。という幻想に取り憑かれていた時期です。

その頃に、宗教とか精神世界の話しをすると、友人でさえ、
宗教は洗脳だ。刷り込みだ。という人がほとんどで、そのような見方が理性的なことだと勘違いしている人ばかりでした。

ところが、バブルが弾けて、日本の経済が失速したままで、いつクビになるか分からない状況、大企業でさえ倒産や、合併吸収されるのが当たり前の時代になると、
それまで、上記のように、宗教や精神世界のことを見ていた人は特に自信をなくして、精神的に危機的状況になる人が増えてきました。

私の回りにも大勢います。

彼らは、一見、普通に働き生活していますが、何を信じて良いのか分からない。
生きている意味は何だろう?というような、自信喪失的状態になっています。

その中にはうつ状態になる人もあり、鬱が悪化すると自殺に至ります。
自殺者が増えたのは、そういう状況も影響しています。

しかし、

それは当たり前のことで、それまで自分の人生をこうしたい。ああしたい。
というビジョンなしで、自動的にベルトコンベアーに乗ったような状態で生きてきたのだから仕方ありません。

これまでの日本では、子供の頃にどういう人生を生きたいのか。
という基本的な対話や教育がなかったからです。

気づきがある人は、もう子供の頃からそのことを考えて生きています。

しかし、なぜ、バブル期頃までは、ほとんど皆元気だったのに元気がなくなり自信喪失したのか?

それは、皆がやっているように勉強して大学に行って、就職すれが、
仕事がずっとあって、順調に成長して、一生雇用される。
という幻想があったからです。

ここまでは、私が言わなくても、よく指摘されることです。

しかし、そのことを、具体的に言うと、自信があったのは、バブル期頃までは「お金の心配がなかったから」です。

つまり、自信をなくしたのは「お金の心配がある」からなのです。

ということは、自分が信じていたものは「お金」であり、お金を崇拝していたと言われても仕方ありません。

思想家の内田樹氏が、そのことに対し、
「お金を崇拝していたからだ」
と指摘されていますが、私もそう思います。


そのお金の心配が出てきたから、自信喪失する。不安になる。

崇拝の対象が疑わしくなった。

つまり、「お金の宗教」が信じられなくなったということと同じです。

宗教は洗脳だ、刷り込みだ。
と言っていた人たちも、実は信心深い、お金の崇拝者だったのです。

スピリチュアルブームをあれこれ言う人がいますが、
私にはとても良いことだと思っています。
中には問題ありのものもありますが、
やはりブームになるということは、皆がこれではいけないという
人間として当たり前のことに気がついたのだと思います。

そして、それを機会に、人生について自分について真剣に考える人が増えています。
私の世代や私以前の世代より、現在の若い方の方が、ずっとまともに人生のことを考えるようになったと思っています。

ここに恐ろしい数字があります。

日本の自殺者は、公式発表で過去最多で、年間3万人を超えましたが、
実は、日本には警視庁発表の数字で、不審死が、最近の数字では、年間平均、約十数万人あります。

不審死とは、他殺とも自殺とも断定できなかったものです。
もしくは、検死官の数が足りないために検死にいたらなかったものも含まれます。

この十数万の中の少なくとも半数は自殺者だということです。
しかし、検死されなかったり、自殺かどうかわからないので、自殺者としてはカウントされません。

ちなみに、日本の検視官の数では、年間、三万件しか、検死できないそうです。

日本の自殺者の実数は、年間十万人を超える数字になることは間違いないと思います。


2016年12月5日月曜日

「経験と認識と」

原理原則にこだわり過ぎることを、原理主義と云います。

原理主義者と言うと、過激派とも同義語に扱われるほど、
ひとつ間違えると危険な考え方、信じ方です。

誰でも、書物を読んで感動したり、人に感化されたり、特定の宗教の信者になると、
まず、軽い原理主義者になると思います。

そこに書いてあることや、勉強したことを杓子定規に捉えて、
そこから、少しでも逸脱すると間違いである。おかしいと非難したりする事があるからです。

見方を変えると、宗教や思想の場合、
聖典を読み、指導者の言うことを理解できたり、と、ある程度教育レベルが高い人に多いと言えます。

イタリア人のほとんどがなんでカトリックなのか?
というと、幼児洗礼を受けているからです。
極端に言えばイタリアに生まれたからカトリックなのです。
なんであなたは日本人なのか?
それは日本に生まれたから。
というのと同じです。

そういうネイティブのひとたちは、子供のころから、神の教えが文化としてある場所で育つので、
宗教の本音と建前、妥協の仕方などを、無意識に学んで生きます。
だから、スペインやイタリア、アルゼンチンのような、信仰はあるが、ゆるい国が出来上がっていきます。

しかし、多くのプロテスタントの国は、
主に、成人してから、聖書の事が理解できるようになって
初めてクリスチャンとして認められます。
ですから、あくまで、聖書主義です。

カトリックは聖書主義ではありません。
もともと聖書を家で読んで、勝手に解釈することを禁じていたくらいです。

そうすると、プロテスタントでは、聖書主義の原理主義者に近い信者が増えてきます。
“聖書を言葉だけで理解しようとする”ひとたちです。
もちろん、そうでない人もいますが、成人期以降に入信した人はそういう傾向があります。

アメリカのバイブルベルト地域に住む人にそういう人が多く、
信じられないくらい原理主義者が多いです。

そうすると、自分や他人のやったことが、聖書に反しているのかそうでないのか、
神の意志に反するのではないのか?
そういうことばかり考えて自分を不幸にして、外に対しては先鋭化していきます。

日本のカトリック信者にもそういう人が多いです。

私が今まで見聞きしたなかで、最も幼少期から宗教の教育を受けているのは、チベットの仏教徒の子どもたちと、ユダヤ教の子どもたちです。モスリムもそうだと思いますが、私はモスリムに関する知識がほとんどありません。

チベットの子たちは、とにかくマントラを歌わされ、
ユダヤ教の子どもたちは、意味もわからないのに、タルムートを暗唱させられます。

ニューヨークにいたころ、ユダヤ教のラビ(司祭のような存在)から聞いた話ですが、
その子どもたちは、しばらくすると、空覚えしたそのタルムートに書かれている箴言のことなんか、忘れてしまうそうですが、
人生の危機に遭遇したときに、それが、見事に蘇って、危機を乗り切ることが多いそうです。

意味も分からずに覚えたことが、実生活の中で本物の認識として蘇り役にたつわけです。
このときに初めて、”教えがほんものの認識として定着した”のだと思います。

ヨーガ哲学もそうです。そして、日本では、格言、箴言として昔から様々な人生の知恵が伝えられてきた歴史がありますが、
私が中学生になる頃、高度成長期ですが、その頃には、無くなってきたと感じました。

何かを学んだら、信じたら、しばらく、それは、ほおっておいた方が良いと私は思います。
それが、後々あなたを救うことになる言葉だったら、
それは必ず脳のどこかに保存されていますから。

そして、何かがあったときや、岐路に立った時に、反射的に蘇ってきて、
それを元に乗り切れたときに、初めて”ほんものの認識”になると思います。
言い方を変えると、反射的に蘇る言葉や知識、それらが本物なのだと思います。

ちなみに、私を一番救ってくれたのは、ユダヤ教のPass Overという言葉です。通り過ぎる。という意味で、宗教行事の名前にもなっています。

悪魔が家の外を通り過ぎているのを、家の中で息を潜めて耐えているユダヤの民の話しです。

一般的には、「災難や艱難が訪れた時、無駄に騒がず、ひたすら静かに耐えなさい。悪魔がとおりすぎるまで息を潜めて静かにしていなさい。」

という箴言で、私が50歳を過ぎた頃に波状的に押し寄せてきた危機に冷静に対応できて乗り切れたのは、このPassOverのおかげです。

しかし、破産同然になったときに、家の玄関の外に債権者がきた時には、
債権者には失礼ですが、今、そとに悪魔がいる。通り過ぎるまで静かにしていよう。
と冷静に居留守を使うことができました。笑。

悪魔はいつまでもいない。いつか通り過ぎる。
そう信じていると、不思議と未来にたいする希望が持てました。

そのすこし後に、もうひとつ、最大級の危機が訪れましたが、
それを越したときに、初めてこの言葉の意味を芯から理解できたと思いました。

感動して、頭にすっと入ってくるような言葉は、大体、すぐ出ていきます。
Easy come easy out.(簡単に入ってくるものは簡単に出ていく)
ということわざもあります。

私は、本当に残る言葉は、謎めいていて、しかし、どこか気になる。
という言葉が多いと思います。

急に心が軽く楽になるような気持ちのよい言葉は、
大体次の日には、消滅しています。笑。

恐らく、潜在意識レベルでそれを感知して選別しているのかもしれません。

2016年12月4日日曜日

「日没の海岸で」

先日、午後3時頃から海岸にでかけました。
もう4時半ころには日が沈みます。

先日は、少しもやっていたのですが、日没直前に太陽の逆光を浴びて、
それまではっきり見えなかった薄い雲が姿を現しました。

どこか千手観音のような感じで、それをバックに撮影しました。
走ったあとでも、身体がすぐ冷えて良く動かなくなりますが、
冷えてぴーんと緊張感のある冬の外気も良いものです。

一応、11月には海ヨガはシーズンオフにしたつもりですが、
風のない穏やかな日は出かけようと思っています。

このハンドスタンドですが、意外と体力を使わないので、
何度やっても身体が温まりません。

で、間間に、飛んだり跳ねたりして身体を温めています。

地元湘南の人たちは、皆、初冬が一番だ。と云います。
穏やかで平和な一日でした。




2016年12月3日土曜日

「本当の多様性」

以前、異色のコメンテーター、評論家として有名な山田五郎氏と仕事をしていました。
山田五郎は本名ではなく、本名は武田さん。

武田さんは当時講談社の凄腕編集者で、よく仕事をいただいていました。
実は武田さんはカトリックのクリスチャンで、
同じカトリックの私とお互い、良く宗教系の話をしていたのですが、

ある日、

「井手さん、先日のオーストラリアのラグビーチームの話、知っている」?
と聞いてきました。

私もそれを新聞で読んでいたので、
「見たよ。驚いた」
と応えました。

その話しとはこうです。

オーストラリアラグビー代表チームの、重要な主力メンバーの中に、
あるキリスト教プロテスタントの信者がいて、
彼の宗派の安息日が、ちょうど、代表チームの重要な対外試合の日とぶつかったそうです。

安息日とは、仕事を休んで、教会のミサに行く以外、何もしてはならない日です。
許されるのは、火事とか緊急事態の対応だけ、ユダヤ教の安息日には車の運転も禁じられています。

一番有名な安息日はキリスト教(カトリックと多くのプロテスタント)の安息日です。それは日曜日。

日曜日が休みだというのは、キリスト教の安息日から来ています。
日本は、それをただ取り入れただけです。

安息日は多くの宗派にとって、
仕事が休みだというだけの形骸化したものが多くなりました。
しかし、元来、安息日には、ユダヤ教のように、厳格な決まりがあります。

まだ、この安息日を厳格に守っている宗教、宗派もあります。

ですから、スポーツはもちろん、ご法度。
彼は、当然、ラグビーの試合にも出場することはできません。

その選手、監督に、その旨を伝えると、
監督は、
「ああ、分かった、欠員分はこちらで対応するから気にするな」
と即答。
他の選手たちからも、安息日であれば仕方ない。と何のクレームも出なかったそうです。

これは、特に信じるもの(宗教)という最も存在の根幹に関わることだったので、
当然だという考えもあるかと思いますが、日本人だったら子供のように大騒ぎでしょう。

その人の行動や発言を判断する以前に、
その人の宗教だけではなく、信じるものや、ライフスタイル、文化的背景を、考慮する。
というのは、マナーや常識以前のものだと私は思います。

もちろん、日本は特に、歴史的に最も多様性に乏しい国なので、
多様性が存在することを知るまでは、いろいろとあると思います。
私もそうでした。

しかし、

自分たちの狭い世界観で、それらの人たちを独断や偏見で見るというのではなく、
そういう信念で生きている人もいるのだ。

ということを、まずは、素直に認める。

これが、本当の多様性を認めるということだと思います。

多様性を認めるということは、あまり人格や知識とは関係ありません。

あるアメリカ人(白人)の極右の青年が、
マイノリティーや意見の違う相手に、
「奴らがいろんな考え方や信じるものがあることは、ちゃんと知っているし、分かっている」
という前置きでいろいろと差別的な言葉を吐いていました。

これは、多様性は分かっているが、彼らは嫌いだ。
ということで、このような方はアメリカ人にとても多いです。

まずは、多様性を認める、それから、始まる。
という考え方でしょうか。

多様性は大前提。
これは、地球上であらゆる生物と共存している人類にとっては普遍的なことだと思います。

そして、多様性を認めるということは、答えがひとつではない。
答えが分からないこともある。
ということに繋がっていくと思います。

2016年12月2日金曜日

「インド哲学、印哲、インテツ」

「ヨーガの開祖」は誰なのか?

多分、多くの言い伝えがあると思いますが、ちょっと調べてみました。
クラシックヨーガの世界では、ダントツに、ヒラニアガルバという方が多いです。

調べてみると、モダンヨガがパタンジャリを聖人化しているのと全く事情が違うようです。

英語訳はHiranyagarbhaです。
意味は、「黄金の子宮」「黄金の卵」

ウパニシャッドでは、ブラフマンと同一視されています。

また、ヴェーダでは、確か、ブラフマンはヒラニアガルバから誕生したと記してあったような。

つまり、宇宙を創造したブラフマンの存在と同じ存在か、それを生み出した存在です。

宇宙ができたとき最初に存在したのは、音だったと言われています。
それは、有名な聖音「OM」(オーム)。
そのため、仏教、ヒンズー教のマントラの始めには、必ずオームを唱えます。

文献には記載されていませんでしたが、
ヒラニアガルバとオームは、ほぼ、同じ存在だと思っても差し支えないと私は思います。
ちょっと、カトリックの三位一体に近いかも。

ですから、ヨーガの開祖だと考えられているのだと思います。
私もこれには大納得。

しかし、インド神話、インド哲学、知れば知るほど迷宮です。

私が高校大学の頃、1960年代〜70年代、インテツを学ぶのが流行でした。
インテツ=印哲=インド哲学です。

興味を持った私に、歴史の先生が、

「よしておけ。世捨て人になるゾ」
とマジな顔して警告したのを覚えています。

その後、インテツのことは忘れて西洋史や神学の方に興味が行っていましたが、
もう、この歳になったら、インテツに深入りして世捨て人になっても構わんだろう!

と考えています。

しかし、ネット時代に生活できて、
様々な文献にアクセスできて、ほんと、ありがたいことだと思います。

実生活に役に立たない知識ほど面白いものはありません。

「呼吸が止っている」

先日気温が上がったので、久々に海岸にトレーニングにでかけました。
例年、冬季は海ヨガはやらないことにしていたのですが、
初冬のひんやりとした空気のもとでのヨガは気持ちの良いものです。

先日は、午後から強い南風が吹き出し、
バランスをとっても、強風で身体がやじろべえのようにゆらゆらと揺れて
結構、バランス維持の練習になりました。

倒立系もアームバランス系もそうですが、
バランスをとりにいくことに集中して、時々呼吸から意識が離れ、
息をとめていることがあります。

特に、身体が逆転しているときは目眩が起きることがあります。
ほんの一瞬でしたが、目眩を感じ、バランスを失って、岩から落ちたことがあります。
幸い、反射的に側転で逃れて運良く平らな岩の上に軟着陸して無傷でした。

たとえ、スタジオの床の上でも、呼吸を止めたことによる目眩は怖いと思います。
ですから、吐く息でバランスをとりにいき、バランスをとった時点で、バンダを締め、
ゆったりとした呼吸を意識した方が安全ですし、安定すると思います。

今でもたまに呼吸が止っていることがあります。
アーサナの時は、無意識にできていると思っている呼吸も、
特に、逆転系の練習では、意識して、チェックした方が良いと思います。

2016年12月1日木曜日

「クリスマスの真相」

12月25日、クリスマスは、実はジーザスの誕生日ではありません。
ジーザスの誕生日は「不明」です。

「12月25日はジーザスの誕生日である」。
と宣言したのは、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌスです。

なんで12月25日かというと、
実は、12月25日は、それまでローマ帝国の国教だったミトラ教のミトラ神の誕生祭だったからです。

このミトラ教、起源はインドです。
このミトラ教のミトラ神(ミスラ神)、ヒンドゥー教の哲学的バックボーンであるリグ・ヴェーダに登場します。

私は、20年以上前に、カトリックのベネディクト会という最古の修道会の修道院でボランティアをしていたことがあります。
そこで、ラテン語ミサの聖歌隊の責任者をしていましたが、
ミサの構成が非常に、オリエンタル的なことが驚きでした。
特にバチカンの大司教のミサを担当させていただいた時は、
その衣装と、古くから伝わるバチカン様式のミサに我ながら感動しました。

ミサは、イントロイトゥスとキリエというものから始まり(イントロイトゥスは、音楽用語のイントロの起源です)、
最後のアニュス・デイまで、様々な儀式を経て終了します。

このミサの形式は、いきなりローマ帝国時代に始まったもので、
それ以前の、原始キリスト教(現在イラクに信者が残っている)の儀式(ジーザスが実際に当時行っていたミサ)とは似てもにつかないものです。
そして、東洋的なヒエラルキー(現在のローマ法王から司祭までの序列と組織)もその頃登場しました。

このキリスト教の変貌は、実はミトラ教の影響が大きいと言われています。

ミサの形式や進行がミトラ教と共通するところがあるというのが大きな理由です。
カトリック関係者は、否定しますが、私は、確実に影響を受けていると思います。

私は、現在サンスクリット語を覚えるために、いくつかのスートラやマントラを暗唱していますが、驚くほどラテン語との共通点があります。

というか、これはもう確実に、ラテン語は古代インドの宗教、文化の血が混じっていると思います。

実は、コンスタンティヌス帝は、キリスト教信者ではなかったと言われています。
非常に賢い皇帝だったので、ローマ帝国を統治するのに役に立つということでキリスト教を国教にしたと言われています。
そのためキリスト教徒のふりをしていたというのが真相のようです。

その賢いコンスタンティヌス帝、キリスト教を効果的に広めるために、
それまで国教だったミトラ教のシステムや祭事の形式をキリスト教に取り入れたのだと、私は思っています。歴史学者にもそれを指摘する方が多いです。

世界中で12月24日〜25日にかけて、ジーザスの生誕を喜んでいますが、
実は、ミトラ神の誕生を祈っているわけです。

そう考えると滑稽です。

歴史ってそういうところがあって面白いです。