2017年6月30日金曜日

「子供は天才だ」



この映像のクラスの子供たちは、皆逆立ち歩きをやっている。

私が小学校のときに体操の授業で「逆立ち歩き」があった。
驚くべきことに、クラスのほとんどが10m歩くことができるようになった。
運動神経が鈍い鋭いに関係なく!
当時は、先生の裁量でいろんなことを子供にやらせることができたのだ。

その自分は50年後に再び逆立ち歩きにトライして、その日に歩けるようになった。
そして、半年後の現在、20mはコンスタントに歩いている。

この話をすると、誰も信じないが、
ここにその証拠がある。笑。

子供の頃に、身体を動かす楽しみを知ると、大人になってできないことも簡単にできるようになる。
ここに登場する先生。素晴らしいことを言っている。

まず、ここに来た子には走らせる。
とにかく走らせる。
身体を動かすこと。


自分が今までやってきたことを証明していただいた。
とても嬉しい。

大人になってから、子供のころに平気でできていたことができなくなった。
それを回復させるのもヨガではないのか?
最近、そう思うようになった。

2017年6月27日火曜日

「リンポチェ師の瞑想の勧め」


チベット仏教のマスター、ミンギュル・リンポチェ師の瞑想の勧め。

リンポチェ師はこの中で、意識を集中して雑念を払う一般的な瞑想とはちょっと違う、シンプルな瞑想方法を説いている。

師は、我々が実社会で、仕事やその他様々な活動で、忙しい心の状態を「モンキー・マインド」と呼んでいる。多分、あまり落ち着きのない猿の様子に例えているのだと思うが、師は、そのモンキーマインドに「仕事」を与えてやると良い。と語っている。

その仕事とは「呼吸」。

自分の呼吸に神経を集中し2〜3回ゆっくりとした呼吸をする。
それが、瞑想の役目を果たす。

これは、少しやり方が違うが、自分も無意識にやっている方法で、無意識だっただけに、目から鱗が落ちる。という感動を覚えた。

自分の経験だと、静かな部屋で30分ほど行う一般的な瞑想は、長いスパンで見ると、精神に良い影響を与えると思うが、短いスパンでは、効果が持続しない。
自分は短気で好戦的な性格なので、それがよく分かる。

だから、即効的な危機回避的瞑想方法を身に着けてきた。

それは、即、何かに意識を移して躱(かわ)す。という方法。
もちろん、そこで大きな呼吸をするのだが、
その「何か」が呼吸というのは、ヨガをやっていながら気が付かなかった。

しかし、「モンキーマインド」という言葉、
「モンキーマインドに仕事を与える」という比喩。
これが面白く、ユーモアがあって、その上、深い。

チベット仏教は、中国がチベットに侵攻してから、本拠地をインドのダラムシャーラーに移し、そこから、ダライ・ラマ14世を始め、多くのマスター達が世界中に散らばって講演をしたり、あるものはアメリカに定住して教えを広めている。

ダライ・ラマ14世が
「もし中国がチベットを占領しなかったら、私も、チベット仏教も、ポタラ宮から外に出て世界に広まることはなかった」
とおっしゃっていたが、

おそらく、このリンポチェ師の言葉も聴くことはなかったと思う。
それを考えると、人や国の運命というものは、興味深い。
表層だけ見ていると気がつかないことも多い。



2017年6月24日土曜日

「小林麻央さんのこと」

うちにはテレビはないし、新聞もとっていません。

YahooJapanはあまりに幼稚な内容なので見ません。

で、

自分のポータルサイトはBBCなのですが、
先日、小林麻央さんがトップに登場していて驚きました。
そして、そこで、亡くなったことを知りました。

彼女のブログ(闘病記)が世界的に有名になって、
その事で彼女の死が取り扱われたようですが、

自分は、子供の頃、食品公害の影響で、重篤な状態と小康状態を繰り返し、
地元の熊本大学医学部大学病院に入院したことがあります。

状態が悪化して緊急入院ということでしたが、急なことで小児科内科にベッドに空きがありませんでした。
それで、癌病棟に入れられることになったのですが、
そこは、最後の個室に入れられる前の四人部屋でした。

そこで病状がいよいよ悪化すると、患者は個室に入れられることになるので、
異様な雰囲気でした。

その四人部屋に入れられたときの、私以外の最初の3人は、脳腫瘍と肺がん。あと一人はあまり話をしなかったので覚えていません。

その3人が次々に個室に移されて、次の3人が入ってきて、また個室に移されて、
ストレッチャーに乗せられて霊安室に向かうときに手を合わせて拝む。
そういうサイクルが一ヶ月ほど続きました。

最初のおとなりのベッドの脳腫瘍の患者は、小学生の女の子でした。
若い子の癌は悲惨。親が見舞いに来て、話しをしているときの様子が子供の自分にも辛かった記憶があります。

自分は、死にゆく人を同じ部屋で見続けたせいか、その時以来、死神のように、命が薄くなった人のことが本能的に分かるようになりました。

父が肺がんになったときも、知り合いの編集者が胃がんで亡くなったときも、まだ病状が出る前から、命が「薄く」なっているのを感じました。もちろん口にはしませんでしたが、、。

昨晩、小林麻央さんの事を知って、この記憶が蘇り、自分の神経が結構過敏になったことを感じていました。

本日午前中に海岸でヨガをやっていて、自分の視界から外れた、後ろの方から、嫌な「咳」が聞こえました。
その咳は、聞き覚えのある「咳」でした。
それは、
例の入院のとき最初に同室だった肺がん患者の咳。
父が肺がんで入院していたときの咳。

相手に気が付かれないように振り返って観察すると、その男性は、年齢は私より少し下くらいの感じに見え、今の時代には珍しいほどチェーン・スモーカーでした。

その男性は、犬を散歩させていたのですが、おそらく奥さんから頼まれていやいやながら散歩させているような雰囲気でした。

黒ずんだ皮膚色の男性の目の下のクマはさらにどす黒く、命が「薄く」なっているのが分かりました。

34歳で死にたくないのに死ななければならない人もいる。
一方、大事な自分の命を、喫煙で縮めている人もいる。
それを、どうのこうの言う資格は自分にはないのは分かっていますが、
なぜか、腹が立って仕方ありませんでした。

人の死は、それが身内であろうとなかろうと、考えさせられることが多く、眠っていた記憶や感覚を呼び起こします。


合掌。

2017年6月20日火曜日

「スローモーションチェック」

しんぴ倒立・スローモーション from 井手宏幸 on Vimeo.

現在、iPhone7plusを使っていますが、カメラが極めて優秀です。
自分の仕事はフォトグラファーですが、一度、仕事の動画撮影に使ったくらい。

そのiPhoneカメラにスローモーション機能が付いているのを忘れていました。
で、
今朝の海岸でのヨガの後に、しんぴ倒立(Press to handstand)をスローで撮ってみました。

初めての撮影でしたが、素晴らしいです。
何が素晴らしいかというと、スローモーションということはそれだけ情報量が多いということ。身体の各パーツの動きが詳細に把握できます。

動きだけではなく、足の筋肉量がちょっと落ちたとか。
結構いろんな事が目につきます。

小さな三脚とiPhoneがあれば、直ぐに撮れるので、
特に、ヴィンヤサをやっている方は重宝すると思います。

いろんな課題が目に入ってくると思います。

この、しんぴ倒立は、やり方が人によって異なります。
通常、講習では、最初に、すでに、逆V字に開いた足を閉じずにそのまま倒立に持ってきて、倒立完成前に足をたたむように教えますが、

自分は、一部の新体操の選手のように、スタートは閉じたまま、足が上がり始めたら、扇のように大きく足を180度開き、それから足を閉じ始め、なるべく一定のスピードで倒立に持っていくようにしています。

こちらの方がスムーズだと思いますが、かなりの股関節の柔軟性が必要で、完璧な180度開脚ができないと美しくないです。

現在、開脚度は175度くらい。ほぼ180度には見えますが、まだ、若干閉じている。

これを完全に180度に、欲を言えば、190度くらいまで開くようにすると、きれいに扇のように足が旋回します。

BKSアイアンガー師の「蓮の花が咲くようなアーサナ」、常に自分の目標です。


2017年6月16日金曜日

「ヨガと運動能力」

倒立歩行・後ろ歩き from 井手宏幸 on Vimeo.

人間の身体は、例えば、手足を、ある方向への動きには全く使っていなかったりします。
そういう方向へ身体を動かしてみると、様々な運動神経やバランス感覚を養うことができます。

よく、後ろ向きで歩くと良いと言われますが、
実際歩いてみると、前向きとは勝手が違い、練習が終わると、身体の感覚が練習前とは違ってきていることに気が付きます。

この倒立歩行の後ろ歩きもそうです。前方に普通に歩くのとは、バランスの取り方が違い、これができるようになると、静止倒立やしんぴ倒立の時にバランスを崩しかけても、身体が自然にバランスを修正してくれるようになります。

ヨガは特に現在では室内で限られたスペースで、大勢で行うので、
身体が移動するアーサナ、大きく動く運動は行うことができません。

本来屋外で、山(主にヒマラヤ)を駆け巡ったり、木に登って逆さにぶら下がったり、
棒の先に岩をくくりつけて筋トレをしたりなど、
ヨギが本来行ってきた静的なアーサナとは別にやっていた動的な運動を行うことができません。

実は、伝統的なアーサナは、これらのヨギたちがやっていた筋トレ的な修行を前提にしています。それだけの筋力が必要だということです。

こういうことを考えると、アシュタンガヨガは、本来自然の中で肉体を鍛えていたヨギたちの筋力を身につける。という意味において、素晴らしいヨガであると思います。

ヨガのアーサナ的な側面を見ると、やはり、ヨガの他にさまざまな運動をやっている方はとてもマスターが早く、アーサナの本質的なものを見る目も鋭いと思います。

サーファーにヨギが多いですが、ジェリー・ロペスやマークロバーツは素晴らしいサーファーでありヨギです。マークロバーツは、ヨガが本職、アシュタンガヨガの国際的な指導員です。

マークはまだ若いですが、こういう体力・運動能力的にも優れたヨガティーチャーは、老齢になっても難易度の高いアーサナをこなしていくことができます。

ヨガとランニング、サーフィン、バレエ、ダンス、格闘技は特に相性が良いと思います。両方やっていると、良い影響を与え合うと思います。

2017年6月14日水曜日

「霊的なセンター」

「霊的なセンター」という言葉は、思想家の内田樹氏が評論の中で使っておられた言葉です。

具体的には神社、お寺、教会。

ヨーロッパも日本も中国も、1000年以上の長い歴史の中で、「街」は、まず地域を治める領主が城や城塞を建てて、そこに人が住み始めると、まず、教会、寺ができて、学校ができて、生活に必要な施設ができて、という風に、お城を中心に発展し、ほぼ、同心円状に広がっていきます。

多くの人の遺伝子的な記憶には、物理的には城郭に守られ、精神的にはお寺や教会が拠り所であるというような安心感が組み込まれているのだと私は思っています。

そのお寺や教会、神社のことを内田氏は「霊的なセンター」と言っておられます。城塞都市の精神的な拠り所です。

私は熊本という城下町で育ちましたが、熊本はまさにその典型でした。

熊本城を中心に、街が東西南北に広がり、要所要所には、お寺があり、特に隠れキリシタンの歴史のある熊本には教会もお寺と共存するような格好で建っていました。
私の実家の周りには、修道院と付属のカトリックの男子孤児院と女子孤児院がありました。

霊的なセンターに守られて生活しているようなものでした。

日本は明治時代まで約1000年仏教国で、仏教は国教でした。
仏教とセットで伝来したのがヨーガです。
ヨーガ=仏教だったわけです。

神社は神道で、神道は宗教としては見られておらず、民間信仰的な扱いであったので、仏教と共存できてきたのだと思います。

おそらく私が子供の頃には無宗教の人も多かったはずですが、長い歴史の中で、この神社や教会に守られているという無意識の感覚や畏敬の念は、アニミズムの時代からの人間の原始的感覚であったと思います。

このことが、多くの人が宗教とは関わりがないが、宗教心はあった。ということになるのだと考えています。

もし、この「霊的センター」が街になかったらどうなるか?
ということを内田氏は論じておられました。

これは私も実感としてもっていたのですが、霊的センターがないと、長くて数十年のスパンで街は廃れていきます。

多くの例があります。最近では、東京の多摩センター、中央林間などの街がそうです。
ここで生まれ育ったひとたちが、街から出ていって戻って来ない。街は活気がなくなるので、新たに住む人がいない。
その繰り返しで廃れていきます。

そして、内田氏の調査によると、カルトがもっとも浸透しやすいのが、これらの、霊的センターがない街だそうです。

これらの街は、主に、都心に向かう鉄道を経営する企業がマーケティングで、駅中心に街を開発した、いわば、利益誘導型の街です。
企業の利益や都合で作られた街です。

あと、企業城下町。これは分かりやすい。企業が移転したり倒産すると街は廃れます。あまりにも寿命が短いので霊的なセンターができる余裕もない。

逆に、すでに廃れたような感のある古い街でも、古くから、お城、寺院や神社のある街は、廃れません。
典型的な例では、私の近所では、鎌倉、逗子、小田原あたり。
逆に霊的センターがほとんどない、基地の街、横須賀は、都心に近いにも関わらず、急速に過疎化しています。

これは、観光的な要素だけではなく、そのに住む人が古くからあるお寺に守られているという、無意識の安心感が根底にあるのが理由だと思います。

人間は、ただ職場に近いとか、買い物に便利だとか、そのような利便性だけを考えられて作られた街には長くは住めないということだと思います。

この、「霊的なセンター」、小規模な例だと、個々の家にも当てはまります。
神棚、仏像、ロザリオ、は、小さな霊的センターです。
ヨーガをやっている方が、よくガネーシャのアイコンなどを置いているのを目にしますが、
ガネーシャも立派な「霊的なセンター」です。
我が家にも、祖父の遺品である観自在菩薩の石像が「霊的なセンター」の役目を果たしています。

この理屈では計り知れない安心感。是非、霊的センターを置いて生活していただきたいと思っています。
できれば、一日一度は手を合わせる。

それが、先日ブログでも書いた「祈り」も通じると思っています。


2017年6月13日火曜日

「祈っても無駄」

と、ダライ・ラマ猊下が、おっしゃったことがあります。

100名位上の犠牲者を出したパリのテロ事件のあとに、テロが無くなるようにとキリスト教の関係者たちが中心になって祈りの集会を開いたときのことでした。

ダライ・ラマ猊下は、祈ってもテロはなくならない。
テロを無くすのは人間だ。
具体的な行動をすぐにとることだ。
と率直に語りました。

犠牲者の追悼で祈るのは、私も分かりますが、
テロが無くなるようにと祈るのは、私もちょっと違うと、とても違和感を感じました。

というのも、テロが出てきた原因は、欧州諸国の中東政策にあるからです。
それは、国の政策だから仕方ないと傍観しておいて、国民は具体的な行動を示さない。
それでいて、テロがなくなるようにと祈る。
これでは、本末転倒で、テロは無くなりません。

祈る、ということは、自分の気持ちを落ち着かせる。冷静にさせる。
ということには、役に立つと思いますが、見返りを求めて祈る。
というのは、明らかに祈りの本質からは、外れています。

神に祈るときに、ご利益を求めて祈るというのは、本来あってはならないことで、
祈る。ということは、ひたすら、神を崇拝する。という行為以外の何物でもない。
ということは3大宗教の共通の原典、旧約聖書にも書いてあることです。

ヨーガは宗教。

ヨーガは、その長い歴史の中で、タントラの中の重要なひとつでした。
タントラとは、ヒンドゥー教、仏教に共通の、神を祀る次第や具体的方法を示したものです。

インド密教でもチベット密教でも、タントラには、必ず、所作、行、ヨーガが含まれています。

ですから、ヨーガの祈りは、明らかに、神への崇拝です。
神を崇拝して祈る。この行為の中に自分の魂を浄化させる何かがあるのだと思います。

ヨーガの祈り、瞑想を安易に自分のヒーリングに利用する。というのは、その人の自由だと思いますが、
私の経験から言うと、それは効果があり、癒されたようで、簡単に雲散霧消してしまう性格のものだと思っています。

しかし、それが、例えば成功法則のような、科学的な潜在意識の法則に基づく祈りであれば、その効果は期待できると思います。

ヨーガの本質はヒンドゥー教であり仏教のタントラであるので、それを抜きにしたものは、本来ヨガでもヨーガでもなく、形だけの祈りを利用しても虚しいだけだと思います。

インドでヨギは、ほとんどヒンドゥー教徒です。
チベットでは、仏教徒です。
チベット仏僧はみな、ヨーガを行っています。

そのヨーガの最も大事な部分が欠落したまま、ヨーガは世界に広まっていったと思っています。

それは、ヨーガではなく、「一般に言うモダンヨガ」という全く別のものである。
と言えば、それはそれで良いとは思いますが、インド5000年の知恵とかいう喧伝をやるべきではないでしょう。本質的に違うものだからです。

ヨーガはアーサナではありません。ヨーガは瞑想です。

アーサナ中心のヨーガの大家であるBKSアイアンガー師も
「ヨーガは瞑想であり、瞑想がヨーガである」
と語っておられます。

私もヨーガと、体操のようなポーズは全く切り離して考えています。
あくまで瞑想とプラナヤマと古来の一部のアーサナだけをヨーガだと捉えています。

私は仏教の一環としてヨーガに接していますが、祈りはひたすら仏陀に対するもので、ただそれだけです。

瞑想には、その向こう側には、神への崇拝が必ずあります。
神という言葉が日本人は苦手ですが、宇宙や自然の摂理と置き換えても良いと思います。
畏敬と崇拝の対象です。

その大きな太陽的な求心力がないと、瞑想も意味がないと思っています。

ですから、私は、それを抜きにしたマインドフルネスにも批判的です。

祈る、瞑想する。ということは、もし、ご利益があるとすれば、人生を生きていく中で、大きな判断をするときや、選択をするときに、自分の内なる声として、あるときは、理性的な判断とは真逆の声として正しい判断をもたらしたりするものだと思います。
そのような「神の声」を聴くための訓練と言ったらよいでしょうか。

しかし、それを求めて続けているのではないと思っています。

2017年6月9日金曜日

「丹田でリードする」

「倒立・回転」 from 井手宏幸 on Vimeo.

バレエの回転技であるピルエットやフェッテ、カラテの後ろ回し蹴りは、頭を身体より若干早くスタートして、身体本体の回転をリードするようにします。
Youtubeなどの動画を見ていると分かりますが、頭が回転しはじめて、ほんのわずか遅れて、頭から下の身体が回転を始めます。身体本体は頭の回転に引っ張られるようにして安定して回転します。
バレエもカラテも足で立っています。
では、逆転した場合、手で立っている場合はどうなるか?
立ち位置で「頭」に相当するのは、位置的には「足」ですが、足は腰の延長なので、実際に頭に相当するのは「腰」。
ヨガ的に言うと丹田が頭となります。
ですから、腰でリードして回転することになります。
動画は全く勢いのない静止倒立の状態から回転させる練習ですが、腰をひねる動きで、上半身が回転する動きを作りかつリードします。
ポイントは腰にリードさせるということで、腰を回そうとしても失敗します。
人間の身体の動きは、立っていても逆転していても理屈は同じだということが分かって面白いです。

2017年6月8日木曜日

「発酵バナナドリンク」

5日目の発酵バナナ。
本来パン酵母として作ったものですが、
発酵過程を少し変えるとドリンクとして抜群の整腸作用があるという話を聞き、常備しています。
いつもは、アサイーのジュースに少し入れて飲んでいますが、腸内環境がとても良くなった事を感じます。
食事の方すみませんが、これを飲んでいると、アサイーの繊維質との相乗効果もあって、大が一日3度、これでもかという量になります。おまけに臭わない。というかバナナの香り。笑。
かなりのデトックス作用だと思います。
煮沸したジャム用の瓶にナマのバナナを切って入れて、浄水を入れて冷蔵庫に3日。
低温だと最初に乳酸菌が増えて、それが雑菌を殺すそうです。
少し泡が出て発酵を開始したら、冷蔵庫から外に出して常温でさらに3日。
本格的な発酵が始まって泡が派手にでてきたら、再び冷蔵庫保存です。
最初に飲むときは、結構勇気が要りましたが、笑、甘酸っぱい良い匂いがします。
タンザニアでは、これをさらに発酵させてンベゲという醸造酒を作るそうです。
5日めの発酵バナナでも若干アルコール分はあります。
これから、なんとかンベゲを醸造したいと思っています。

2017年6月4日日曜日

「嫌な予感」


「嫌な予感」
一昨日、夕方、結構風が強い中で倒立歩行の練習をしていました。
風があるときは、いつも必ず向かい風で倒立に入るのですが、その日、魔が差したのか、追い風で勢いを付けてみようと考えて、さっと地面を蹴って倒立歩行に入って片腕になったときに、いきなり突風にやられてしまいました。
地面を蹴る瞬間に、「あっ、これやばいかも」
とはっきりと意識しました。
ケガをするときって、なぜか、直前にケガをする。
と分かります。
それなのになぜ、やるのか。
それが魔が差した。と言うのでしょう。
これが10年に一度くらいあります。
突風にさらわれて、跳ね飛ばされるようにバランスを失って、片腕のまま、ひねりを入れて着地しようとしましたが、そのときに、手首がありえないような角度になり、「骨折」という二文字が頭に浮かびました。
転倒はしましたが、なぜか骨折も捻挫もしませんでした。
昨日まで、若干痛みが残っていたのですが、今朝は完治したようです。
自分は、練習時間の半分はストレッチをやっています。
ストレッチは直接技の上達には関係ありません。
ストレッチで身体を柔らかくしておくのは、このときのようなためだと経験で知っていました。
私の手首はストレッチで縄抜けができるくらい柔らかく、あらゆる方向に曲がるように時間をかけてストレッチしています。
肩もそうです。
本当に入念にストレッチをやっておいて良かったと思います。
過去にもそのような経験が多くあり、ケガを免れているので、ストレッチだけは、入念にやっています。
ひどいケガすると1年は棒に振ります。
それを通常の状態に戻すのに1年。
2年かかります。
その間は通院、リハビリ、出費。
これは、日常生活にも当てはまります。
写真は、本日の後屈の練習。ヨガのアーサナです。
苦手な後屈ですが、苦手なものこそしっかりとやっておかないと、後々後悔することになります。
歳取ると、こういう経験と言うか知恵が、体力が無くなった分を補ってくれます。

2017年6月1日木曜日

「その一言で」

「その一言で」
仕事を失ったり、人から嫌われたり、別れたりしたことが結構あります。
今までは、不用意だったとか、大人ではなかったとか、思慮分別が足りなかったとか
そういう風に考えて、ちょっと暗くもなっていましたが、
最近、それは必然だったという確信を持つようになりました。

不用意に出てくる言葉や態度というものはないと思います。
特に自分の場合、本能的に、考えるより先に言葉や態度に出るから。
ですから、それらの一見不用意に見える言葉や態度は、実は自分の本心から出たものだと思います。

逆に、自分では当たり前で、思っていたことを素直に言っただけ。
という言葉に妙に反応して好意や信頼を寄せてもらったこともあります。

いっしょに仕事をやっていて耐えられない人というのがいます。
生きるために仕事をやっていますが、
好きな仕事で天職だと思っていても、
その耐えられなさが限界を超えると、
いつも、何気なく、その「一言」が出てきます。

自分の場合フリーの仕事ですから、限界を超える嫌なことがあったら、
その場でばかやろう!と恫喝して、仕事を切られても平気なところがあります。

もちろん、恫喝したことは一度もありませんが、メガトン級のキツイ言葉を静かに吐きます。
その辺が自分でも嫌になるところですが、今でもそうで、これは仕方ないと諦めています。

それを、母親に対しても何度もやったことがあります。

母はそんな自分に対して、いつも、私の性格を呪うような言葉を浴びせましたが、
ある日、
「昔はみんなそうだったんだよね。
職人さんたちは、偏屈で、ぶっきらぼうで、すぐにキレるし、今からすると人間失格者ばかり。
けど、職人や学者さんは、大体そんなもの。何かに秀でているということは、何かが欠けている。
それを、誰にでも当たり障りのないコミュニケーションを暗に要求する現代が異常なの」。
とポツリと言いました。

その時に、ああ、やはり母は自分のことを分かっていて心配してくれていたのだな。
と、今までの蟠りが一挙に氷解したような気分になりました。

人間の性格は変わらない。
これは不変であり普遍。

性格がよくなったというのは、その性格を上手くコントロールできるようになったというだけのこと。
「その一言」はそこから出たものであり、
あなたが、もし、それを覚えていたら、分析すると面白いと思います。

私がフォトグラファーになったころ、営業職に合わない性格であったのに、それを様々なセミナーに参加したり心理学の本を読んだりして克服した、稀に見るデキた営業の方がいました。
その様子がとても無理をしている感じがしました。
ちょっと後悔していますが、ちくりと嫌な事を言ったことがあります。


それでも、その方は全く意に介さずに自分を使ってくれました。

しかし、その仕事が終わってしばらくして、
その方がスキルス性胃癌で、あっという間に亡くなったことを知りました。

無理はいけない。

自分の性格をよく把握して、
それを仕事のためとは言え、大きく変えようなどと不遜なことをしてはならないと思います。

それは命に関わることもあります。