2017年10月29日日曜日

「筋トレとしてのパスチモッターナーサナ」

パスチモッターナーサナ、代表的な前屈ポーズです。

ほぼ毎日やっているポーズですが、倒立系のポーズを行う時には、特に前屈の柔軟性が必要なので、倒立の直前には、立位のこのポーズをやっています。

今回はバリエーション的なものをやってみました。
身体を前屈させていくときには、ご存知のように、腰から曲げて、お腹、胸と徐々に折りたたむように曲げていきますが、

このバリエーションでは、バンダを締めて、背中が反り、胸が押し出されていく力で曲げました。

通常、ある程度前屈したら、趾を握ったり、手を足裏に回したりして、身体を引っ張るようにして伸ばしますが、ここでは、バンダの締める力、すなわち腹筋を主に使って前屈させています。

通常、額は膝のあたりにつけますが、
ここでは、膝は開いて、その間に頭を埋めるようにして、額を床につけています。
ですから、足は湾曲してO脚のようになっています。

手は、足裏の先で、軽く重ねています。
この形だと、左手を右手より先に伸ばしているので、
身体が若干ねじれて、その結果、写真で見ると、背中の、向かって右側が低くなっています。

これをやっていると、時々腹筋がつってしまいます。
それだけ、腹筋を使っているとも言えます。

前屈柔軟系のパスチモッターナーサナですが、やり方次第では、アームバランスや倒立系の筋トレとしても役にたつアーサナです。

特に、しんぴ倒立の身体の引きつけ(プレス)には効果があります。

2017年10月28日土曜日

「続・諸行無常」


「マイ・ロックがなくなっている」
ほぼ私物化して、いつも、マイ・ロックとしてアームバランスの練習をやっていた茅ケ崎突堤の岩(写真で私が乗っている岩・烏帽子岩はちょうど私の腕に隠れている)が先日の台風の大波で木っ端微塵に破壊されました(写真下)。

この岩の根っこの部分は残っています。

当日、海岸を見ていた方の話によると、台風の低気圧で、満潮の海面の水位が上昇して、この岩場は、四方から大波を受けて見えなくなっていた模様。

大波は防風林まで打ち寄せ、いつも走っているあたりには、魚が散らばっていました。

しかし、この岩場、めぼしい大きな岩は覚えていたのですが、ほとんど無くなり、
逆に、平坦に敷き詰められていた大岩が、飛び出したりして、まったく地形が変わってしまっていました。

しかし、恐ろしいのは波の威力。

これが津波だったら、威力は比較にならない。
海が牙をむくと怖いです。

しかし、マイ・ロックが消滅して、練習場所がなくなった。
ああ、諸行無常。

2017年10月26日木曜日

「諸行無常」

Sunset handstand from idehiroyuki on Vimeo.

先日の台風が茅ケ崎海岸に迫ったころ、
ちょうど日の入りの時間帯でこのあたりは、満潮でした。

台風の負圧で海面が上昇して高潮状態になり。大波が防風林まで押し寄せ、その日の午後、海岸に行くと、いつも見慣れた場所は、爆撃を受けたような惨状。

ジョギングロードは砂で埋め尽くされ、防砂壁はなぎ倒され、板の階段は、バラバラになり、いつも人が歩いているあたりに沢山の魚が転がっていて、カラスがそれを求めて集まっている状態。
台風前までは、実に平和の光景でしたが、殺伐とした変わりように呆然となりました。

本日、落ち着いて、倒立や簡単なバランス系のポーズができたのは、このコンクリートの突堤だけ。
日が落ちるのを待って、筋トレというよりは、シールシャーサナの瞑想のような感じで、30秒〜1分ほどの倒立瞑想を数回。

今週末あたりに、再び台風がやってくるらしいですが、
どうなるのか心配です。

自分にとっては天国のようだったトレーニングエリアの変わりよう。
諸行無常という言葉を思い出しましたが、
雲一つない、透明感のある美しい日没の光景に救われました。

日没の頃は、もう寒い。
着込んでいないと、身体が言うことをききません。

秋を一気に通り越して冬の匂いがする本日の茅ケ崎海岸でした。

2017年10月24日火曜日

「野菜のアク抜きは不要、肉は必要」

20年以上前の話、レギュラーで撮影していた女性誌の料理班の方とゲラを見ながら話をしたことがありますが、
インド料理ではアク抜きというのはないそうです。

ちょうどそのときカレーの特集で、東京在住のインド人女性料理研究家(アーユルヴェーダの専門家でもある)が作るカレーの特集がありましたが、インドではまず最初にオイルとカレーのスパイスで野菜を炒めて、そのまま水を加えます。

担当の方がアク抜きはしないのですか?
と尋ねると、インドではやらない。野菜の養分を捨てるようなことはしません。
そのような概念はない。
とのことでした。

最近、ごぼうのアク抜きででたアクのようなものは、ポリフェノールで、ごぼうが本来もっている重要な栄養素であることが分かりました。

自分は小豆を玄米といっしょに炊いて酵素玄米を作っていますが、あらかじめ、小豆をアク抜きして玄米に混ぜると、酵素玄米が美味しくなりません。アク抜きのときに抜けたポリフェノールや、小豆の表皮の酵素菌がアク抜きで少なくなるのだと疑っています。

ひじきは鉄分が豊富だと信じている方がいますが、
ひじきは、昔から鉄鍋で作っていて、
実は、その鉄鍋から出てきた鉄分がひじきの鉄分だったそうです。
これは科学的な実験で証明されています。

このように、日本の伝統料理や食べ物の「常識」の中にも根拠のないものが多いです。

逆にアク抜きが必要なのは、肉。
母は1928年に天津で生まれ青島で育ちましたが、家には現地の本場の料理人がいて毎日質素な本場の中華を食べていたとか。
まだ、レストランが街の中心街に数軒あるだけの時代で、ほとんどの日本人の家庭では、中国人のコックさんを雇っていたそうです。
日本人が無防備に街を歩いていたら殺された時代のこと。

その中国では、豚肉、鶏肉はかならず料理前に湯引きして血や不純物を除いていたそうです。
豚肉独特の匂いが気になる場合は、葛根湯で湯引きするそうです。

欧米や遊牧民の多い地域では、肉のアク抜きもあるし、肉の毒や匂いを除くためにハーブを使います。
そしてまず何より肉は屠殺直後に血抜きしないと老廃物不純物が肉に付着してしまいます。
ユダヤ教圏、イスラム教圏では必ず血抜きしますし、キリスト教圏でも血抜きしたコーシャフードしか食べない人が多いです。

血抜きをしないとまず、味が格段に落ちます。

日本では、漁師が一本釣りした魚は大体、血抜きします。
血抜きした魚とそうでない魚は生臭さが全然違います。それに血抜きしないと、急激に鮮度が落ちます。
漁村育ちの人たちが都会のスーパーの魚を口にできない。
というのはそのこともあります。

血は、締めた直後はとても栄養分があるのですが、少し時間が経つと急激に酸化、劣化、毒素化します。
ですから、スーパーの肉や魚は、その血を洗い流さないと、相当、身体には悪いと言えます。

最近ハラル認証という食の認証システムがありますが、
これは、イスラム文化圏でタブーとされている食材や料理法を全く使っていない。
という保証のためのシステムです。
そこには、羊、鶏肉、血抜きも含まれています。
厳密にいうと屠殺の方法まで含まれています。

これは宗教上の儀式とは関係なく、クリーンな肉を食べるための昔からの知恵です。

年齢を重ねて、日本や世界の食の文化を見ていると、いかに現在の食文化が効率利便性優先で不健康で味も落ちたものが供給されているのか分かります。

2017年10月23日月曜日

「答えがないのが当たり前」

答えが分からないと不安になる人は、「考えることができない人」だと思います。
何事にも「答え」は一つではない。いくつか答えがある。
という、本来人間にとって自然な考え方は、
「神」という存在があって初めて出てくるものだと思います。

ある宗教を信じているのか、無神論者かは、関係なく、
「神」という存在は、良く分からないが天体や地球の運行を支配しているもの。
と置き換えても良いと思います。
それだったら、無神論者でも納得できると思います。

現在の社会は、イギリスの産業革命を初まりとした、
人類史上、ほんの瞬きのような特殊な時期です。
その特異な時期の、社会やそれをとりまく経済、文化、などの決まり事だけを前提として物事を考えると、それは、答えは出てこないのが当然です。
もし、単刀直入に答えを与える人がいたら、そのような人は信じない方が良いでしょう。

しかし、人間はなんとか答えを求めたがる。
そこから、自分なりの答えを感じて、考えて、言葉にする。

こういう作業って大事だと思います。
ヨーガは、そういうことを一番教えてくれると思います。

ヨーガには、即答を与えてくれるような聖典はありません。

ヨーガ・スートラだと言う人がいるかもしれませんが、
ヨーガ・スートラはリグ・ヴェーダを編纂して書き換えただけにすぎません。

パタンジャリも20世紀まで無名でした。
それを有名にしたのは欧米人です。

リグ・ヴェーダの世界は宇宙です。
知れば知る程分からなくなる。
インド哲学を分かろうとして、気が触れた人が周りにいます。

その「分らないこと」が当たり前の世界に生きている。

そのことを教えてくれたのがヨーガだと思っています。


2017年10月20日金曜日

「ジャンプでヨガ」


ヨガのアーサナも、いろんな側面から見てみると奥が深く、面白いですが、例えば、陸上競技の三段跳びをヨガ的に分析してバランスをとってみると、三段跳びも、立派に、ヨガのアーサナになります。

ジャンプは、空中にいる時間があるので、ヨガとは勝手が違います。

最近、肩の痛みと疲れがしんどいので、
こういう時は気分を変えて、別の事をやってみようと思って、本日、海岸で、三段跳びの練習をやってみました。

ジャンプは足で跳ぶように思われていますが、
上半身と臀部の力で飛びます。
踏み切って、空中でバランスをしっかりととらないと、
距離が伸びないだけでなく、バランスも崩します。

そして、視線も、自分が着地するところを予想して、そこを見ています。
走り始める間合い、呼吸。
ジャンプする、踏切のタイミングで、瞬時に息を吐かないと、高く飛べません。

久々の三段跳びの練習。

いろんな学びがありました。

2017年10月18日水曜日

「食事の回数とダイエット」


※ダイエットとは、日本で誤解されているように体重を減らすことではなく、健康法の別名です。その前提でのダイエットのお話です。
タモリや鶴太郎さんが一日一食でやっているが、食事の回数に善悪優劣は全くないと思う。目的によって適切な回数があるだけだ。

一回から二回の食事だと、気をつけないと、身体が食事の間、一種の飢餓状態になるので、食事のときにエネルギーを無理して溜め込んでしまう。それが肥満や脂肪増にもつながってしまう。食事を減らすダイエットで失敗するのは大体それだ。

一日一回の食事で必要なのは、その人の正常な呼吸、メンタル、腸内環境、消化吸収能力。これらが整っていないとどんなオーガニックなものを理論通り食べていても、栄養失調で体調を崩してしまう。
自分は、年に2回の断食と一日1.5食生活を長年やってきたので、実感として分かる。
そして、周りにそれを実行して、うまくいく人とうまくいかない人がいるのを見てきた。
多くのダイエット方が巷に溢れているが、
こういう食事法を正しく行うと上手くいく。
ということが分かる簡単な方法がある。
そのダイエットを提唱している人の身体つき、顔色や目力、生気を見ること。
どんなオーガニック食事の知識がある人でも、どんな理論的に正しい食事をしていても、不健康そうな顔色で例えば、メタボだったら、その健康法やアドバイスは、問題がある。間違っている。と思った方が良い。
私はそういう人のダイエット方は疑っている。
その一日一回の食事方に対峙するのが一日6食の食事法。
一日に摂取するトータルな量はかえずに、回数だけ増やす方法。
常にエネルギーを補給しているので、身体が脂肪を蓄えようとしない体質になることが分かっている。
これは、脂肪をつけずに、筋肉量を増やすというアスリート向けの方法で、アメリカのスポーツ医学から誕生した考え方。
これをどうのこうの言う前に、論より証拠と考え、約1ヶ月続けてみた。
単刀直入に変化をレポートすると。
良い面は
○一日トータルの食事量が明らかに減った。ジャーの玄米が減らない!
○甘いものを欲しくならない(これが一番かも。空腹の時間がないと甘いものは欲しくならない)。
○一回あたりの食事量がつまみ食い程度のものなので、胃が小さくなった。
○結果的に余分な炭水化物の摂取がなくなった。
○食事の後に全く眠くならない。疲れない。
○脂肪がつかない。
○ストレスが減った。精神的にピリピリしなくなった。
○酒を呑まなくなった(週に1回か2回の頻度になった)。
良くない面は
○食事を考えるのが大変、めんどうくさい。好きでないとできない。目的がないとできない。
○会食はたまにしかできない。会食してもソバ一杯程度で済ますことになる。しかし、そのソバ一杯で凄い満腹感になって眠くなる。笑
○上記の理由で、人付き合い優先派には向かない。
○食事を儀式、文化と考えている方にはつらいかも。
とまあ、一ヶ月では、メリットの方を感じる一日6食(5食でもトータル量が変わらなければ良いらしい)。
自分の場合は、うち2食は自家製バナナ・リンゴジューズに豆乳・プロテインを混ぜたドリンク。
この軽い、たった2食で、普通の人が一日に必要だと言われているタンパク質を、肉なんかよりずっと効率よく吸収できる。
気になるトレーニングへの影響は、身体の筋肉率を示す骨格筋率は上がり、体脂肪率は下がった。体重は一定。
持久力は以前にも増してついたと感じる。
とまあ、良い面が目立つ結果になりました。
とりあえず半年は続けてみます。
この6食ダイエットの目的は、私の場合、筋力と持久力の増強。脂肪をつけない。それだけ。
ダイエットは必ず目的と目標をもってやってください。それがないと失敗します。

2017年10月17日火曜日

「クロスヨガ、クロスフィットネス」

クロスフィット・トレーニング from idehiroyuki on Vimeo.

数日続いた雨が上がって、丁度よい気温、無風という好条件だったので、夕方、海岸を狂ったように走って、ジャンプして逆転してきました。

アメリカではクロスヨガやクロスフィットネスがブームです。
クロスヨガは、ヨガというよりは、ヨガ的要素を取り入れた体操、筋トレのようなもの。
ヨガだと思わなければ、なかなか良い運動にもなり、気持ちの良いものです。

決まりもないし、自分で適当にいろんな運動を取り込んでやっているという感じです。
ヨガにも、インテグラルヨガという、様々な伝統的なヨガの要素を上手くアレンジしたものがありますが、モダンヨガのインテグラルがクロスヨガという感じがします。

ここでも何度か書きましたが、ビンヤサヨガはインドの格闘技カラリパヤットとイギリスの体操技術を取り入れて出来上がったものです。ちょうど100年くらい前の話です。
最初は軍隊用に考案されたもので、BKSアイアンガー師が、クリシュナマチャリア氏が考案したビンヤサヨガを軍事教練として教えたのが始まりです。

それを、パタビジョイス師が受け継いで広めたのがアシュタンガヨガです。

そのアシュタンガヨガをもとに、様々な亜流が出てきたのが、パワーヨガであり、クロスヨガだと思います。

ヨーガの根本である、瞑想とプラナヤマ、これを根本に据えて、身体を鍛えるためにクロスヨガをやる。
それが、自分の今のスタイルです。






2017年10月15日日曜日

「玄米パン」



グルテン不耐症なので、なるべく小麦の食べものを避けていますが、安心して食べられるのが、玄米パン。
グルテンはゼロなので、不耐症の症状は全く出ません。
この玄米パン、市販のものは、結構高価です。
そして、玄米は、表皮が農薬に直接さらされるので、無農薬でないと、もろに残留した農薬を摂取することになります。
で、無農薬の玄米を購入して、自分で粉をひく。
ということになりました。
この粉挽きの機械は、ほぼプロ用の小型のものです。結構高価でしたが、1分くらいで玄米をきめ細かな粉にしてくれます。
この粉で作ったのが、この玄米パン。
大体こつがつかめてきたので、美味しく焼けました。
パンの耳は、せんべいのような風味と食感ですが、中はもちっとしています。
パンは、食べる直前にトーストしてはじめて食べられる状態になります。
これが結構美味しくて、腹持ちが良い。
栄養価も白いパンに比べて全然高い。
菜食主義の自分にとっては、なくてはならないものになりました。

上に乗っけるものは、アボカド、バナナ、ピーナッツバター、自家製のカシューナッツバターなどなど。
いろいろと考えるのも楽しいものです。

基本的に昔からヨギは自分で自分が食べるものを料理しています。
仏教の修行と同じで、私は料理を作るのもヨーガの修行だと思っています。

人間は自分が食べるものでできている。からです。



2017年10月13日金曜日

「自分の持病の話」



ちょっと精神医学的な話です。

1980年代にアメリカで、知り合いになった精神科医から、
簡単なテストと問診の後に「アスペルガー症候群に間違いないだろう」と、診断された自分にとっては、
このリンクの記事、

「アスペルガー症候群・自閉症の特徴は?」

は、部分的には納得でき、釈然としない部分もある解説だが、アスペルガーと自閉症を、自閉スペクトラム症と統合するのはなんとなく賛成である。

自分にも軽度の自閉症的傾向があるからだ。

そうすると、今、自分はここに居るんだ。
という立ち位置が分かったようで、少しは、安心する。

こういう分類に関する考え方や病状のネーミングは、
「あの人は精神がおかしい」とか
「協調性がない欠陥人間だとか」
「空気が読めない」
「コミュニケーション能力に欠ける」
とか意味不明の差別に対して、はっきりと、これは病気の症状である。
と理解してもらうことには意味があると思う。

ただ、これらの病気は、様々な症状が入り組んでいる場合が多く、なかなか病状の説明はむつかしい。

だから、スペクトラムというネーミングがされているわけだと思う。
スペクトラムとは、多様な観念・物などが織り成す広範な連続体;範囲,領域。
はっきりとした判断、診断ができない世界だ。

こういうことは日本人、特に、常に答を求める今の日本人が最も苦手としているところなので、未だに自分は人を避けてしまう。4名以上の集まりには出ないし、もう長い間友人を作っていないのもそうだ。

勝手に人格や気質を想像して期待され、大きく裏切られたと言われることの連続だったからだ。

自閉症的な傾向もある自分だが、
たまに、月に一~二度、気の合った知人と会って呑んだりするのは平気だ。

自分の仕事は人物撮影、撮影は長くて30分で終わるので、
その間は職人として、どんな笑顔も出せるし、大抵の話題には対応できる。

自分にとって、人と出会える貴重な時間なので、コミュニケーションも密になり、結構充実した時間が過ごせる。

そういうことを言うと、あなたはアスペルガー・自閉症じゃないよ。
という人もいるが、そこが、まさにスペクトラムという概念が意味するところ。
自分でも想像できないくらい、様々な症状の「広範な連続体」なのだ。

しかし、インスタやFBなどのSNSには救われている。
やはり、人間は表現する存在であり、自分を主張する存在だからだ。
自分のフィードだから、基本的に自分の意見。
マナーとしては、議論はしない。ということになっているから、一方通行であれ、ありがたい。
いつも、私のFBや、ブログを読んでくださる方々には感謝感謝です。


2017年10月11日水曜日

「ブルクシャーサナとアドムカ・ブルクシャーサナ」

「ブリクシャーサナとアドムカブリクシャーサナ」 from idehiroyuki on Vimeo.

ブルクシャーサナ(ブリクシャーサナ)は立木のポーズ。
アドムカ・ブルクシャーサナは、倒立。

BKSアイアンガー氏の友人のラームさんに、このサンスクリット語の説明を聞きましたが、アドムカは、一般に下向きのという意味ですが、確か、アドが下向きの、ムカが顔という意味で、顔を下向きにしたポーズ、すなわち倒立だと言っていました。

このブルクシャサーナは、アームバランスや倒立系のポーズの前には必ず行うポーズです。
動画では海を背にしていますが、いつもは、水平線に焦点を合わせています。
このポーズの安定度は、日々、微妙なムラがあって、このポーズがピタリと決まると、その日のバランス感覚は冴えています。

おそらく、人によって、体型や筋力によって、バランスの取り方やイメージが違うと思いますが、私は、身体を垂直にまっすぐにバランスをとる、と言うよりは、弓形にしなった身体の筋肉を、張りつめた弓のようにして安定した力を作っています。

動画は日没直前ですが、最後に、同じ場所でアドムカ・ブルクシャサーナをやってみてバランスを見てみました。

悪くはないな。

というバランスでした。

ブルクシャサーナ。
毎日こつこつとやっていると、バランス感覚がよくなると思います。




2017年10月10日火曜日

「片岡鶴太郎 ストイック過ぎる生活習慣に医師がダメ出し…余命15年。77歳」


以下、リンク
「片岡鶴太郎ストイック過ぎる生活習慣に医師がダメ出し」


最近鶴太郎さんのヨーガ修行のビデオを見たが、
昔から、鶴太郎さんと同じような修行をやっている方はちらほらいた。
しかし、みなさん、ほぼ例外なく短命。
自分の見た感じだと、鶴太郎さん、70歳を迎えた頃にはすでに危ないのではないのか。
もしかしたら、その前か。
と、特にこの写真を見ると感じる。
自分は長いこと、たまのおつきあいの呑み会以外(それでも肉は口にしない)は、完全なベジタリアンだが、
トレーニングをやっている事情もあって、計算上、肉食の人が平均的に一日に摂るタンパク質の最低1.5倍は、
植物性蛋白質と大豆由来の高性能プロテインから摂っている。
だから、筋肉量を表す骨格筋率は、現在でも、アスリートレベルだ。
ベジタリアンの基本は、肉食をやっていた時と同程度は、植物性のタンパク質を摂る。
ということ。
これが、意外と知られていないので、栄養失調になる人が多い。
鶴太郎さんも、もう少し、その辺に留意すると、もっと健康的になれると思う。
しかし、鶴太郎さん、現在私と同じ63歳。
これでも、人類の歴史、ヨーガの長い歴史から見ても充分長寿だと思う。
おまけに元気はつらつ。
もし、亡くなる場合も、私の師匠と同じように、前日まで元気で突然死になると思う。
自分もそのつもりで、地球一回りを目指して走っている。
自分の心臓は成人男性の倍以上あるので、時限爆弾のようなものなのだ。医者からも運動は続けるように言われている。どこか、動いていないと生きていけないマグロやカツオのような気分になる。
もし、そうなったら、長年寝たきりや病院通いで平均寿命を迎えるよりは、はるかに幸せだと思う。

ただ、あまり周りに迷惑をかけて死にたくはない。
ジョギングロードで行き倒れ。
というのが最高かも。笑



2017年10月8日日曜日

「やはり瞑想はヨーガの原点」


自分が最初に瞑想に近いものに出会ったのが小学校四年生の頃です。
それは、柔道の乱取りが終わったあとに、行う黙想。
そこでは、道着を正して、正座して、目を閉じて呼吸を整えるというものでしたが、乱取りで高ぶった気持ちや乱れた呼吸が1分くらいの黙想で静まって、体力まで回復したようになったことを記憶しています。

カラテでは黙想とは別に、組手がひとしきり終わると、立ったまま、「息吹き」という呼吸法を行いました。
これは、腕を大きく引いて、胸郭を開く本格的なもので、
完全なウジャイ呼吸法でした。

恐らく、元をたどるとヨーガから来たものではないのか?
と思うくらい、優れたものでした。

その後も、ヨガの後や、格闘技やスポーツの後に、瞑想を行うようにしていましたが、どちらかというと、高ぶった気持ちを落ち着かせるもの。という性格だったように思います。

ここ10年くらいは、朝、軽い前屈後屈ネジリ系の目覚めのアーサナを行った後に、その日によって5分〜10分の瞑想を行っていましたが、ルーティーンになりきって、マンネリ化していました。

しかし、今年になってからは、思う所あって、朝、夜、必ず20分の瞑想を行うようにしました。
何かをやろうと決めた時は、そのための時間は作るものであって、
他のことにかまけて、できない。
というのは言い訳にすぎないと経験で分かっています。

瞑想をやる時間がない。気が進まない。
と思う日は、その日一日、心に余裕がなく、きまって精神状態がとげとげしくなっています。

とにかくやる。
という風にしていたら、やはり一ヶ月くらい経ったころから日常化して、食事をするように、瞑想の時間に自然に入れるようになりました。

瞑想に入ると、最初、頭に沸いてくる雑念は沸いてくるに任せています。
すると雑念で頭の中がいっぱいになり、頭の中が混沌の小宇宙になり、やがて、脳の眼が見ている宇宙空間が暗闇になっていき、そこに青色の発光体が見えるようになります。

これが、私の瞑想中の脳が見る幻覚です。

この幻覚こそが、瞑想の定義である「脳波がα波とθ波の境界にある状態」で、夢か現かという瞑想の状態です。

おそらく、ヨギによって、その状態は違うと思います。
最近、数十年ヨーガを続けている先生と話をしましたが、青い発光体が見える。という経験は同じで
私は驚きましたが、先生は、長年ヨーガをやっている仲間は「みんなそれを見るんですよ」。
とおっしゃっていました。

脳は、夢を見るように、瞑想中に幻覚を見ます。
それは、とても興味があることですが、夢を思い出せないように、その幻覚も夢うつつで脳が見ていることであり、
夢が溜め込んだストレスの発散であるのと同様、幻覚も、それに近いものだと感じています。

ですから、瞑想の後の心の落ち着きは、瞑想をやらないときの自分とは別物になっています。

2017年10月6日金曜日

「赦すけど忘れない。は赦さないということ。」

日系イギリス人、カズオ・イシグロ氏が、ノーベル文学賞を受賞しました。

氏は小説のみならず、エッセイや論評も執筆していて、大勢の無防備な一般市民が虐殺されたボスニア紛争(1994年〜)についても、印象深い論評を残しています。

「ボスニアで起きたのはまさにそのようなことでした。埋められた記憶が、意図をもって掘り起こされてしまったのです。おそらくどんな社会にとっても、何を記憶し、何を忘れ去ってしまうべきかを決定することはとても大きな問題です。そして扱うのがとても難しい問題です。」

この中の、「何を記憶し、何を忘れ去ってしまうべきか」。
これは、永遠のテーマだと思っています。

よく、許すけど忘れない。

と言う言葉を聞きますが、忘れない。ということは、許さない。と同義語だと私は思っています。

これは潜在意識について精神科医の著作を読んでいたときに知ったのですが、人間の潜在意識は、忘れない限り、許すということはできないそうです。だから、許すには、忘れるということが必要な訳です。

そこのところをイシグロ氏も「何を記憶し、何を忘れ去ってしまうべきか」と表現しています。

実際、人間の脳は、見た、聞いた、全てのことを記憶しているそうです。思い出せないのはただ単に、脳の記憶庫から取り出せないということ。だから、本当に忘れるということはできないことになりますが、
忘れている時間を長くする。忘れたと思い込ませることはできます。そのための諺も昔から残っています。
ユダヤ教とキリスト教には以下のような諺が残っています。

“Let God Fight Your Battles”.(仇討ちは神様に任せろ)

"If you do not forgive others their sins, your Father will not forgive you your sins."
(あなたが他人の罪を許すことができないなら、神様もあなたの罪を許されない)
日本にも、
「人を呪わば穴ふたつ」
(人を呪っていたら、自分用の墓の穴も用意しろ)
諺がずっと伝えられているだけに、それだけ難しいテーマではあるのですが、
許さないでいると、自分の中に傷を抱えているようなもので、それが、いずれ破滅に繋がる。
ということだけは確実だと思います。

上記のボスニア紛争で、家族全員を目の前で虐殺されたイスラム教徒のおばあちゃんが、インタビューで、
「家族を殺した敵を、私は憎みません。許します。許さないで憎んでいたら、私は生きていけない」。
と静かに語っていましたが、それは真理だと私は考えています。
あまりに怖かったり、つらい経験は身体の防衛本能で記憶を閉ざしてしまうそうですが、そのおばあちゃんもきっと、そうやって記憶を閉ざしてしまうことで、忘れ去り、それが許すことに繋がっていくと思っています。

ノーベル文学賞は、人間の根源的普遍的な価値観や考え方を提示し続けた人に与えられます。

カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞はとても意味のあることだと思います。










2017年10月5日木曜日

「シジフォスの神話」

本日の倒立歩行 from idehiroyuki on Vimeo.

動画は本日の茅ケ崎海岸の日没の風景です。
ギリシア神話に登場するシジフォス。
シジフォスが山頂まで重い岩を押していったら、神様が、冷酷にも、その岩を麓まで戻す。
そして、シジフォスは麓まで戻って、再び岩を押し上げる。
シジフォスは、その苦役を繰り返し、それは永遠に続く。
それが、「シジフォスの神話」。
チベット仏教の聖人、ミラレパの苦役もそれに近いものがあります。
人生はものの見方で、それがどういう風に見えるのか、決まると思いますが、ある意味「シジフォスの神話」。
日々の仕事も「シジフォスの神話」的なところがあります。
この映像の、私が延々と毎日やっている「倒立歩行」も「シジフォスの神話」。
地球を背負って、世の罪を背負って歩いているような気になります。
倒立は深い。

世界が真っ逆さまに見える訳ですから。

そして、紛れもなく、重い地球を支えている。
明日も明後日も、時間の許す限り、シジフォスの神話は続きます。

嗚呼。

2017年10月4日水曜日

「モチベーション・地球一周を走る」


地球一周、赤道の周りを測ると40,075kmだそうだ。

自分は、50歳でトライアスロンを始めたときから、一応、どのくらい練習をしたのか記録している。
写真は、その記録の最新の約1年分だ。
別にそれを見て、分析したり、対策をするわけではなく、オーバーワークを避けるために、
練習の内容と量だけをアバウトに記録している。
同時にヨガの練習の記録も併記してある。

ランニングはカラテやキックボクシングをやっていた時代は、日課だったが、
若い頃に、どのくらい走ったのか見当がつかない。
大体40歳でジョギングをやっていた頃と、50歳以降の記録を合わせると、ちょうど地球半周弱の距離走っているという計算になった。
10代~30代前半でコンスタントに走っていたので、地球半周以上は確実に走っている。

一応、あと地球半周、約20000km走ると、確実に地球一周になる。
大雑把に計算すると75歳まで走れたとして、あと12年。
年1,666km。月平均で138km。
ちょうど現在一ヶ月に120km~150km走っているので、このペースを12年継続できると達成になる。
ただ、何歳まで走れるか分からないので、距離を上げて月160km走ると72歳で達成。

一説によると、ランニングをコンスタントに続けている人のランニング寿命は70歳代前半だと言う。
ぎりぎりだが、達成は可能だ。

ふと気になって計算した走行距離だが、こういうのって、最高のモチベーションになる。
気がついて良かった。笑。

ちなみに、私が知る限りで最も走っている人は、もう故人だが、ヘビー級プロボクサーのジョー・フレイジャー。
180cm、100kgの身体で、アマチュア時代から現役引退の約15年で、地球3周。
マラソンランナーが走るのとは訳が違う。
もっとも尊敬するアスリートの一人だ。




2017年10月3日火曜日

「ランニングはヨガ」

「ランニングはヨガ」 from idehiroyuki on Vimeo.

ランニングはヨガ。
ランニングはメディテーション。
腰の位置を水平線の位置に持ってきて上下動しないように意識。眉間のチャクラも同じ位置を移動するように意識。
何でもヨガになる。どんな動きからもヨガは学べる。

2017年10月2日月曜日

「母、腰を強打」

倒立歩行前進後退ターン from idehiroyuki on Vimeo.
先日、母の入っている施設から連絡があった。母が夜ひとりでいるときに腰を強打して動けなくなっているらしい。
それで、本日正午頃、施設を訪ねた。
施設の介護は受けるサービスの種類によって、限られており、その範囲外だと肉親が直接、医者に連れていったりすることもある。

確かに腰を強打して痛みがあるときは、痛みを訴えて動けないが、ここが認知症の面白いところだが、痛みが少し収まると自分が怪我をしたことを忘れるらしい。

で、本日施設に行ったら、平気で歩いていた。
ただ、何か腰が痛いのよね。
というだけだった。だから強打して怪我をして、悪くなるかもしれないという「弱気」にはならないようだ。
不思議だ。

もうこれは3度目くらいだったから、施設も私も慣れていたが、万一ということを考えて、しっかりと観察してきた。

施設はちょうどお昼時で、私は母を食堂に訪ねたが、そこには施設のお年寄りが大勢いた。
もう、日本の将来の縮図のようで暗澹たる気持ちになったが、同じ年齢層でも、まだ、矍鑠として剣道をやっている人もいるし、三浦雄一郎のお父さんは100歳までスキーをやっていた。

人間は、70、80を過ぎると、長い人生で一番、生活習慣の差が出るのではないのだろうか。
知人の柔道家は60歳後半で高校生を相手に勝ち抜き3段を取った。

別にストイックにならなくても、毎日少しのトレーニングやヨガで、健康体は保てる。
酒を呑むな、節制しろというのではなく、気持ちよく身体を動かしていれば、怠惰にしている人より遥かに美味いメシと酒がいただける。

そう思い直して、夕方、海岸に行って、
ボケ防止に最も効果的な運動のひとつだと言われている倒立歩行を1時間ほどこなした。

今、夕食ちうだが、飯が美味い、酒が美味い。

みなさん、身体を動かしましょう。


2017年10月1日日曜日

「医学の父、ヒポクラテスの格言」

2500年前の医学の父、ヒポクラテスの格言。
時間を超えて、どんな時代の人間にも当てはまる格言だと思う。
インドにはアーユルヴェーダがあるが、アーユルヴェーダは要約的な格言にしても、複雑なヒンドゥー教的考え方を知っておかないと、なかなか理解できないが、ヒポクラテスの格言は単刀直入ですっと入ってくる。

このあたりが、欧米のヨガをやっている人がアーユルヴェーダにはあまり感心を持たないひとつの理由かも知れない。

やはりオリエンタル的なものよりは、ヨーロッパ的なものの方が波及力がある理由なのかもしれない。

この中で最も印象に残るのが
・食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか」

ちなみに記録に残っている偉人の中で最古のヴィーガンがこのヒポクラテスだ。


・歩くと頭が軽くなる
・火食は過食に通ず
・まず何よりも害をなすなかれ
・すべての病気は腸から始まる
・歩く事は人間にとって最良の薬である
・満腹が原因の病気は空腹によって治る
・月に一度断食をすれば病気にならない
・病気は神が治し、恩恵は人が受け取る
・汝の食事を薬とし、汝の薬は食事とせよ
・人は自然から遠ざかるほど病気に近づく
・病気は食事療法と運動によって治療できる
・食べ物で治せない病気は、医者でも治せない
・人間は誰でも体の中に百人の名医を持っている
・賢者は健康が最大の人間の喜びだと考えるべきだ
・病人の概念は存在しても、病気の概念は存在しない
・私たちの内にある自然治癒力こそ真に病を治すものである
・極度に激しい疾患には、極度に激しい治療が最も有効である
・健全なる体を心掛ける者は完全なる排泄を心掛けねばならない
・筋肉を充分に使っている人は病気に罹りにくく、いつまでも若々しい
・心に起きる事はすべて体に影響し、体に起きる事もまた心に影響する
・食べ物について知らない人が、どうして人の病気について理解できようか
・患者に発熱するチャンスを与えよ。そうすればどんな病気でも治してみせる
・人間がありのままの自然体で自然の中で生活をすれば120歳まで生きられる
・病人に食べさせると、病気を養う事になる。一方、食事を与えなければ、病気は早く治る
・病気は人間が自らの力をもって自然に治すものであり医者はこれを手助けするものである