以前、異色のコメンテーター、評論家として有名な山田五郎氏と仕事をしていました。
山田五郎は本名ではなく、本名は武田さん。
武田さんは当時講談社の凄腕編集者で、よく仕事をいただいていました。
実は武田さんはカトリックのクリスチャンで、
同じカトリックの私とお互い、良く宗教系の話をしていたのですが、
ある日、
「井手さん、先日のオーストラリアのラグビーチームの話、知っている」?
と聞いてきました。
私もそれを新聞で読んでいたので、
「見たよ。驚いた」
と応えました。
その話しとはこうです。
オーストラリアラグビー代表チームの、重要な主力メンバーの中に、
あるキリスト教プロテスタントの信者がいて、
彼の宗派の安息日が、ちょうど、代表チームの重要な対外試合の日とぶつかったそうです。
安息日とは、仕事を休んで、教会のミサに行く以外、何もしてはならない日です。
許されるのは、火事とか緊急事態の対応だけ、ユダヤ教の安息日には車の運転も禁じられています。
一番有名な安息日はキリスト教(カトリックと多くのプロテスタント)の安息日です。それは日曜日。
日曜日が休みだというのは、キリスト教の安息日から来ています。
日本は、それをただ取り入れただけです。
安息日は多くの宗派にとって、
仕事が休みだというだけの形骸化したものが多くなりました。
しかし、元来、安息日には、ユダヤ教のように、厳格な決まりがあります。
まだ、この安息日を厳格に守っている宗教、宗派もあります。
ですから、スポーツはもちろん、ご法度。
彼は、当然、ラグビーの試合にも出場することはできません。
その選手、監督に、その旨を伝えると、
監督は、
「ああ、分かった、欠員分はこちらで対応するから気にするな」
と即答。
他の選手たちからも、安息日であれば仕方ない。と何のクレームも出なかったそうです。
これは、特に信じるもの(宗教)という最も存在の根幹に関わることだったので、
当然だという考えもあるかと思いますが、日本人だったら子供のように大騒ぎでしょう。
その人の行動や発言を判断する以前に、
その人の宗教だけではなく、信じるものや、ライフスタイル、文化的背景を、考慮する。
というのは、マナーや常識以前のものだと私は思います。
もちろん、日本は特に、歴史的に最も多様性に乏しい国なので、
多様性が存在することを知るまでは、いろいろとあると思います。
私もそうでした。
しかし、
自分たちの狭い世界観で、それらの人たちを独断や偏見で見るというのではなく、
そういう信念で生きている人もいるのだ。
ということを、まずは、素直に認める。
これが、本当の多様性を認めるということだと思います。
多様性を認めるということは、あまり人格や知識とは関係ありません。
あるアメリカ人(白人)の極右の青年が、
マイノリティーや意見の違う相手に、
「奴らがいろんな考え方や信じるものがあることは、ちゃんと知っているし、分かっている」
という前置きでいろいろと差別的な言葉を吐いていました。
これは、多様性は分かっているが、彼らは嫌いだ。
ということで、このような方はアメリカ人にとても多いです。
まずは、多様性を認める、それから、始まる。
という考え方でしょうか。
多様性は大前提。
これは、地球上であらゆる生物と共存している人類にとっては普遍的なことだと思います。
そして、多様性を認めるということは、答えがひとつではない。
答えが分からないこともある。
ということに繋がっていくと思います。
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