2016年12月23日金曜日

「恐怖のインテツ(インド哲学)」

先日、我が家で仲間内の忘年会を楽しみました。
そこに居た、元共同通信社の辣腕ジャーナリストのUさん(65歳)に、たまたま、
「最近インド哲学をかじっている」
と話をしたら、Uさんの表情が変わりました。

Uさん、一時期インドやアフガニスタンにも取材歴があって、インド人の政府関係者ともコネクションがある方です。

以前アップしたブログ記事にも書いたのですが、
私が高校〜大学にかけて(1960年代〜70年代)、文学、歴史、哲学を目指す学生の間で、
インド哲学が流行したことがあります。

インド哲学=インテツ
と呼んでいました。

特にUさんの世代にはインテツにハマった人が多く、
当時早稲田の学生だったUさんの同級生二人もインテツを専攻して、
インドに渡ったそうです。

ところが、

二人とも、その後、精神病院に入院してしまって、廃人同然になったそうです。

伝え聞く所によると、あまりのインド哲学の不可解さと、混沌に混乱してしまって、
精神状態が異常になったとか。

ちょうど同時期にチベットに仏教哲学を学びに留学した同僚とは対照的だったそうです。

Uさんの話によると、インド哲学でおかしくなった人は多いとか。
「井手さん。インテツだけはよした方が良い」
とまじに忠告されてしまいました。

私はまだ、ヒンドゥー教やそのバックボーンのインテツについては、表面をざっとさらったような状態ですが、それだけでも、この世界がケイオス(Caos・混沌とした状態)なのがよく分かります。

乱暴に言えば、皆言っていることが違う。
しかし、言っていることが皆違うということを知っている。

多分、同じ宗教的価値観のもとでも、それぞれの世界観、宇宙観が違う。
すなわち、多数の宇宙が存在しているような状態なのだと思います。

先日ベナレス(バラナシ)の宗教祭の映像を見ましたが、それが凝縮されていました。
撮影していたアメリカ人フォトグラファーが「Caosだ。それ以外に言葉が見つからない」
と言って呆然としていました。

人間は自分が感じる世界に生きていて、人が感じるところの世界には生きていません。
自分が考え感じることが全てです。
皆が世間だと思っている世界は存在しません。
自分がそれを自分の感じ方で認識したときに初めて世間という世界が広がります。

自分の回りの世界は、自分がそれを認識するまで存在しない。
認識して初めて存在する。

私の目の前のMacは、私がそれをMacだと認識するまでは、存在しない。
ということです。

私もそう思います。

それを最近、オーストラリアの物理学チームが科学的に証明しました。

このことをインドの宗教観世界観に当てはめてみると、
その混沌が分かるような気がします。

翻ってチベット仏教になると、
仏陀の宇宙観が厳然として存在し、多くの仏教徒が、その宇宙観にアクセスして、
できるだけ共通の認識を持とうとしているのが分かります。

その共通の認識をできるだけ明瞭化するために、
若い頃から問答修行などで、仏教体系に対する理解を深めています。

そこが、ゴータマシッダルタ(仏陀)の教えがヒンドゥー教から発展して世界的な一神教になった理由のひとつだと思います。

しかし、世の中は、ケイオスと暴力に溢れている。と認識すると、
インテツの諸々の世界観は、自然だと思います。

そこから逃れるために、心の平和を得るために、分かりやすい教えを伝えるために
仏陀がこの世に送られてきたのだと感じています。

仏陀は内なる自分に神を求める、平和を求めるように説いています。
自分の心が平和になると、その自分が認識する外の世界も平和になります。

ですから、前述の物理学チームの証明したことと整合性があります。

仏陀とヒンドゥ教の関係は、最後までユダヤ教徒として生きて、磔になったジーザスとユダヤ教の関係に似ていると思います。


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