2016年12月17日土曜日

「瞑想と幻覚・幻聴」


名画「レナードの朝」(原題Awakening)の原作者、オリバー・サックス博士(脳神経外科医)が、幻覚、幻聴について面白い研究をされています。

博士は昨年亡くなりましたが、ユーモアがあり、芸術を愛し、とても愛すべきキャラクターの方で、私は大ファンでした。

TEDに講演が記録されていますので、興味のある方はご覧になると面白いと思います。

博士は幻覚と幻聴について長年研究されていましたが、
博士の凄いところは、その膨大な臨床例に基づいた研究をされていたことです。

具体的には、精神疾患や幻覚や幻聴で入院した多くの患者と対話することによって、
幻覚や幻聴の正体というものを追求されていました。

博士は、人間が、目が見えなくなったり、弱視になったり、耳が聞こえなくなったりすると、脳が、それらの疾患で欠けた情報を補うかのように、欠けた情報を補完したり創り出したりする。それが、幻覚・幻聴の正体だという仮説を持っておられました。

例えば、脳腫瘍が出来て、視神経を圧迫して弱視になりと幻覚を見るそうです。
これは晩年、目のガンになった博士自身の体験でもあります。

そして、その脳腫瘍が出来る場所によって、見る幻覚は共通するそうです。
例えば、ある場所にできると、チャイナ服の女性や、口が裂けた人間の幻覚を見るとか。

実は、私は幼少期に、公害で、薬物に脳をやられてしまい、左耳の聴力がゼロです。
高熱が続いたために、頻繁に幻覚・幻聴を経験しましたが、
幻覚ではすまされないような経験もしました。

そして、博士の理論を裏付けるかのように、聞こえない方の耳を補完するような
幻聴が続き、今では、もう慣れてしまいました。

特に仕事で、カメラのファインダーを覗いて集中しているときは、頭にある音楽が繰り返し鳴っています。
それは、時期によって違いますが、年間を通じサイクルしています。

多分、博士が研究されたように、ファインダーを覗いて集中するということは、脳のある部分に大きなストレスを与えるわけで、それがトリガーになって、聞こえない方の耳の情報を補完する意味で、幻聴を発生させているのかもしれません。

そういう説明も成り立つと思います。

そして、長年、黙想、瞑想をやってきて、感じるのは、
長時間の瞑想という特殊な環境では、幻覚や幻聴が発生しやすいということです。
特に、エキスパートになるほど、それは顕著になるような気がします。

瞑想は、目を閉じて暗闇の中です。視力がなくなる状況です。
集中してくると、音は入ってきているのに無音という状態になります。

そして、

次から次へと湧いてくる様々な雑念を、かわして、無になる状態に近づいて行きます。
それ自体が、実は、かなり特殊な神経の使い方をしていると感じています。
つまり、リラックスしているようで、実は脳に対してはストレスになっています。
長時間、非日常的な状態を続ける。それは紛れもなくストレスです。

そういう状況下では、幻覚、幻聴が特に発生しやすいと思っています。
これを、悟りや啓示だと勘違いするヨギが昔から数多くいました。

子供の頃から幻覚、幻聴が日常だった私には、
ああ、勘違いしているな。
とすぐに分かりましたが、
言うと傷つくので黙っていました。

しかし、面白いことに、最近、共通する幻覚があることに気が付きました。
ある雑誌の仕事で出会った、ヨーガ歴50年を超えるヨーガの先生(女性)に、こう言われました。

「井手さん、瞑想中に、暗闇の中に青い結晶のようなものが見えるよね?」

私は、びっくりしました。
実は、50歳を過ぎた頃から瞑想中にそれを見るようになっていたからです。

瞑想すると、目は閉じていますが、
私の場合、広々とした漆黒の宇宙空間が目の前に広がります。
それは、立体的で奥行きがあります。

50歳ころまでは、その暗闇を見ているとオレンジ色の炎が見えていたのですが、
ある時期からそれがブルー、コバルトブルーになりました。

「ええ、見ます」!と驚いて答えると、
先生は大満足したように、黙って微笑んでおられました。

私は、チャクラという概念も瞑想中に受ける啓示のようなものも、
全ては、瞑想という特殊な状況が、脳に与える、ある刺激が連続することによって、
脳が創り出したり、補完したものだと考えています。

それらは、全て、自分の内側の問題で、外からやってくるものではないと思います。
もちろん、その刺激は外側からやってきますが、受け取る自分、具体的には脳がそれを解釈して自分の内部の宇宙で、幻覚や幻聴を展開するのだと思います。
啓示だと思われることも、実は、自分の中で起こっていることです。

ただ、それでは説明ができない事象もあります。

マザーテレサの啓示の例もそうですが、
それは、稀有なアンテナを持った、ごく少数の人間に起こることだと思います。
しかし、そういう外からのシグナルを、受け止めることが出来る。
ということは、自分の中の脳の領域の問題だと思います。

キリスト教の世界で、「100人クリスチャンがいると100通りのジーザス像がある」
と言われますが、まさに、そのことわざがそうで、

同じ聖書を読んで、説教を聞いて、聖歌を歌っていても、
自分の中にあるジーザス像や、その言葉に対するイメージはみなそれぞれに違い、解釈も違います。
そして、解釈によっては、熱心なクリスチャンであるのに、実に不幸な人生を歩む人も少なくありません。

それは、ジーザスという存在が外に存在するのではなく、
様々なジーザスが自分の中に存在していることと同じです。

ここでも、人間は自分が感じる世界に生きている。と思います。
常に主語は自分だと思います。

(追記)
チベット仏教では、瞑想中に雑念が湧いてきても、それらを湧いてくるがままにして放おっておくそうです。私は、その方が、脳に対しての非日常的なストレスを与えない、自然な方法だと思い、私も、最近では、雑念は湧くに任せています。
すると、面白いことに、雑念が湧くことに慣れてしまい、逆に、雑念を感じないようになります。
チベット仏教は、5つの宗派がありますが、佛教体系は全ての宗派同じです。
独特の問答修行も含め、最も科学的な佛教だと思っています。

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