2016年11月29日火曜日

「分からないことがあるということ」


例えば、現在生きている日本人の場合、
生まれてから、義務教育を経て高校大学に進学して就職という人生を送る人が多いと思います。
義務教育を受ける過程で、テストや入試があって、それをパスするための勉強をするわけですが、
それは、単にテストや入試のためのもので、必ず「正解」というものがあり、
その正解を求める疑問に答える資料なり、何かがある。ということを大前提としています。

それは、ネット社会になって加速して、潜在意識的に答えは必ずある。
検索すればどこかにある。
という錯覚を持つ人が増えてきたと思います。

しかし、私は、基本的に、どんなことでも、最終的に
「良く分からない」
という結論に達します。なんでも分からないことだらけです。

聖書はいろんな事を教えてくれると言いますが、
もう、何十年も、旧約聖書、新約聖書を読んでいますが、
謎だらけで、よく分かりません。

黙示録は何を語っているのか?
なんて質問されると、なんと言って良いか分かりません。
しかし、黙示録の、ある一節について「どう思うか」
と言われれば、自分なりの説を展開することはできます。

先日、久々にエホバの証人の勧誘のおばさんが、二人やってきました。

なぜか、モルモン教もエホバの証人も布教は二人です。笑。
そして、私がネイティブのカトリックだと分かると、
黙示録についての質問をしてきました。

私には、大体、その質問に対して答えが用意してあるのは、分かったし、容易に想像がついたので、
全く、違うベクトルで見解を述べました。

つまり、外界における地獄思想は、人間の内面の暗喩であるということ。
旧約聖書も新約聖書も、そういう比喩や暗喩の集合体であることを具体的、歴史的な例をあげて、いろいろ教えてあげました。

しかし、それらに関しては、歴史的に様々な見解があって、宗教会議で揉めたりして、見解の違いがあり、良く分からない事だらけだと、述べました。

すると、おばさんたち、全く用意した答えや、説教とは別の世界に自分らが置かれたわけです。
そして、もし、自分たちが、エホバの証人の反論マニュアルと違う世界におかれたらどうするのか?
なんて考えも及ばなかったのだと思います。
案の定、どうやって返したら良いのか分からないで、ポカーンとしてずっと私の話しを聞いていました。

何事にも正解があり、答えがひとつだと思い込まされた人間は脆いと思います。
どこかに正解がある。そして、その正解はどこにあるのか?と安易に人に尋ねる人は、永遠に「考える」ということができないと思っています。

正解に慣らされて世の中に出ると、その正解が脆くも崩れた場合にはパニックになります。
反面、正解なんてない。自分には分からないことだらけだ。分からないということが当たり前の世の中だ。
と思っている人間は、考え、推論して、タフになっていきます。そして、なにより、楽です。

チベット仏教の仏僧たちは、若い頃、延々と、仏教の教えに対する見解を討論する、教義問答という修行を行います。

一対一で教義に対する見解をガチで討論し、相手を論破していきます。しかし、結論はつかず、つまり正解はありません。

フランスの大学入試資格試験で有名なバカロレア。
この中の論文テストでは、正解のない質問に自分の見解をいかに論理的に展開できるか?が試されます。

このチベット仏教の教義問答の一例とバカロレアのある解答論文を見たら、
論理の展開がそっくりでした。

理性崇拝のフランス人と、仏僧が同じ論理展開をしている。
というのが、とても新鮮でしたし、ある意味納得できることでした。
そして、両方とも、
正解はない。
分からないということもある。
ということがよく分かっているのだと思いました。

分からないことがある。と放棄するのではなく、
分かろうといろいろと思考を巡らし、論理を展開することは大事だと思います。

そうすると、分からない。ということの不安は払拭されると思います。
分からない。ということが論理的に分かることが多いからです。

宗教の世界も、現在のフランスのような理性崇拝の世界でも
「分からない」ということがあることがよく分かっているし、
謙虚だと思います。

前述のエホバの証人のおばさんたち、私のいろんな見解をしばらく聞いていたら、
結構、今まで知らなかった事を知って嬉しいと喜んで、勧誘のことなど忘れて、すっきりとした顔をして帰っていきました。

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