2018年2月19日月曜日

「心の中のものを吐き出す・ゾクチェン」

「心の中のものを吐き出す・ゾクチェン」

チベット密教のヨーガ修行にゾクチェンというものがあります。瞑想法のひとつですが、その源流はアボリジニやなどの太古の原住民の古い記録にも残っているそうです。

ですから、ヨーガよりはるかに古い起源を持つ最も古く、根源的な瞑想法と言われています。

この瞑想法を行う前にやらないといけない行があります。
それは、裸になって森のなかに一人で入り、そこであるだけの力を振り絞って、思いつく限り汚い言葉を大声で叫びまくること。

仏陀は、何かを自分の中にいれるときには、自分の中にある何か他のものを捨てないといけない。

と述べていますが、全くそのとおり。

ゾクチェンのこの行は、自分の中にある毒、邪心などを吐き出すという意味合いがあります。裸で大声を出して、身体の中の毒を出すわけです。

この、大声の行のことは、最近、中沢新一氏の本で読んだのですが、実は、自分は、そうとは知らずに、ずっと、この行を年に何回かやっていました。

以前のアカウントの時に一度書いたことがあります。

私は夏になると、5kmほど走ってきて、茅ケ崎の広大な砂浜で、周りに人がいないと。もし、いても声が届かない距離だと、着ているものをさっと脱いで、海パン(ランニングの時は下着はいつも競泳のパンツです)ひとつになって、雄叫びを何度も上げながら、全力疾走して海に飛び込んで、全速力で100mほど沖に出て、そこで、再び、雄叫びを何度も上げていました。

これは実に気持ちよく、その後しばらく、瞑想やヨーガは特別な幸福感に包まれていました。そして、この、好戦的で短気な自分にしては、信じられないくらい心穏やかに、ひと夏くらいは過ごせたのです。

自分がお世話になっていたKカラテの練習でも、道場ではみな、ほぼ雄叫びに近いような「気合」を出し続けていました。これは、Kカラテの伝説になっている最高師範の元で、このような雄叫びにも近い気合を出し続けないと体力も気力も続かなかったからです。

竹刀を持って、後ろに立たれると、みな、その気合は、悲鳴に近いものになっていました。気合が少しでも足りないと、容赦なく竹刀が飛んできたからです。

そして練習が終わると、何ものにも代えがたい幸福感にみたされていたのを思い出します。

物理的に大声を出して、周りにだれもいなければ、思いつく限りの汚い言葉でわめく。
これは、とても効果的なデトックスだと思います。
思いつく限りの「思いつく」は、過去に、自分が心の中で思ったりしたことであって、そういう悪感情は意識下で沈潜しているからです。

それを吐き出す。
吐き出した直後、はっとします。
こんな汚い言葉を吐いた。
しかし、今、出ていったゾ
と。

余談ですが、麻原彰晃もゾクチェンの修行をチベット、ネパールでやっていて、その修業は現地で高く評価されていました。

しかし、その修業は全く生かされずにテロリストに成り果ててしまいました。

基本的に、自分がやっていることを過大に評価して、その見返りや他人の評価を期待する人は、修行したことを、その評価や自己顕示の道具にする傾向があります。

麻原彰晃を褒めていた中沢新一氏も、そのことをチベット仏教の師に指摘され、その後、ぴたりと、ワイドショーやテレビのゲストから姿を消しました。

中沢新一氏もオウム真理教当時に言っていたことと、その後は全く変わったと思っています。

この「大声、雄叫び」の行。
ゾクチェンのつまみ食いと言えばそれまでですが、
これだけでも、素晴らし効果があります。

しかし、くれぐれも人がいないところでやってください。笑。

0 件のコメント:

コメントを投稿