2018年1月16日火曜日

「こだわりと集中と」

「こだわりと集中と」

この写真は30年前に女性誌のために撮った、雪村いずみさんのポートレート。
特に有名人を撮る時には、撮影前には、相手をリラックスさせるため、
自分もリラックスして、緊張感の中にも和んだ雰囲気を作る必要があります。

しかし、撮影が始まると、異様な雰囲気となり、
自分の集中力との闘いになります。

撮影の時は、ほとんど身体は動かしません。
しかし、10分ほどの撮影が終わった時には、全身汗でびっしょりです。
目に額の汗が入ってくることもあります。

このときは私はヨーガを始めてまだ10年くらいでしたが、
それだけの集中力がヨーガから来たのか、どうかは分かりませんでした。

ちょうどその頃に、あるヨーガの先生から、
ヨーガには深入りしない方が良いとアドバイスを受けていました。

どういう事かというと、
私のような仕事は、執着とこだわりが形になるからです。

人と違った、尖った、感性でないと行きていけません。
そういうものを身につけるには、物事を達観して見るヨーガは真逆の作用を及ぼすというのが先生の考え方でした。

私は、はっとして、それに従いました。
その方が自分にとって自然だったからです。

以前にも書きましたが、その頃、あるNHKの番組で
ある陶芸家の先生が、禅を始めるようになって陶芸ができなくなった。
とおっしゃっていました。

陶芸も執着です。禅は、それをなくすためにあるようなものですから。

私は、それ以来、50歳を迎えるまで、
瞑想を、執着への集中力養成のような位置づけで続けてきました。

今になって思うと、それは正解だったと思います。
邪道だと言われても仕方ないですが、それで良かったと思っています。

そういう段階を経ないと、執着から離れることはできないと分かったからです。

しかし、

50を過ぎてからの執着は、まだまだ山の頂上を目指して登っているようなものです。
私は50を過ぎたら、自分の経験から言っても、
下山して行く時期だと思っています。

山を降りることが頭にない人は遭難します。

それより、下山しながら下界の様子を良く観て、
自分の立ち位置を冷静に考える方が賢明だと思うようになりました。

まだまだ50歳を迎えるころまでは、
様々な聖典や経典にあるような、悟りとか達観、
そのようなものが、自分にとってしっくり来ない場合は、
知識以上のものとして実感されない場合は、
無理して、それに従おうと考えない方が良いと思います。

一応、知識として心の中に置いておくと、
ある時期が来ると、それらの言葉が、自然に語りかけてくると思います。

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