2017年6月13日火曜日

「祈っても無駄」

と、ダライ・ラマ猊下が、おっしゃったことがあります。

100名位上の犠牲者を出したパリのテロ事件のあとに、テロが無くなるようにとキリスト教の関係者たちが中心になって祈りの集会を開いたときのことでした。

ダライ・ラマ猊下は、祈ってもテロはなくならない。
テロを無くすのは人間だ。
具体的な行動をすぐにとることだ。
と率直に語りました。

犠牲者の追悼で祈るのは、私も分かりますが、
テロが無くなるようにと祈るのは、私もちょっと違うと、とても違和感を感じました。

というのも、テロが出てきた原因は、欧州諸国の中東政策にあるからです。
それは、国の政策だから仕方ないと傍観しておいて、国民は具体的な行動を示さない。
それでいて、テロがなくなるようにと祈る。
これでは、本末転倒で、テロは無くなりません。

祈る、ということは、自分の気持ちを落ち着かせる。冷静にさせる。
ということには、役に立つと思いますが、見返りを求めて祈る。
というのは、明らかに祈りの本質からは、外れています。

神に祈るときに、ご利益を求めて祈るというのは、本来あってはならないことで、
祈る。ということは、ひたすら、神を崇拝する。という行為以外の何物でもない。
ということは3大宗教の共通の原典、旧約聖書にも書いてあることです。

ヨーガは宗教。

ヨーガは、その長い歴史の中で、タントラの中の重要なひとつでした。
タントラとは、ヒンドゥー教、仏教に共通の、神を祀る次第や具体的方法を示したものです。

インド密教でもチベット密教でも、タントラには、必ず、所作、行、ヨーガが含まれています。

ですから、ヨーガの祈りは、明らかに、神への崇拝です。
神を崇拝して祈る。この行為の中に自分の魂を浄化させる何かがあるのだと思います。

ヨーガの祈り、瞑想を安易に自分のヒーリングに利用する。というのは、その人の自由だと思いますが、
私の経験から言うと、それは効果があり、癒されたようで、簡単に雲散霧消してしまう性格のものだと思っています。

しかし、それが、例えば成功法則のような、科学的な潜在意識の法則に基づく祈りであれば、その効果は期待できると思います。

ヨーガの本質はヒンドゥー教であり仏教のタントラであるので、それを抜きにしたものは、本来ヨガでもヨーガでもなく、形だけの祈りを利用しても虚しいだけだと思います。

インドでヨギは、ほとんどヒンドゥー教徒です。
チベットでは、仏教徒です。
チベット仏僧はみな、ヨーガを行っています。

そのヨーガの最も大事な部分が欠落したまま、ヨーガは世界に広まっていったと思っています。

それは、ヨーガではなく、「一般に言うモダンヨガ」という全く別のものである。
と言えば、それはそれで良いとは思いますが、インド5000年の知恵とかいう喧伝をやるべきではないでしょう。本質的に違うものだからです。

ヨーガはアーサナではありません。ヨーガは瞑想です。

アーサナ中心のヨーガの大家であるBKSアイアンガー師も
「ヨーガは瞑想であり、瞑想がヨーガである」
と語っておられます。

私もヨーガと、体操のようなポーズは全く切り離して考えています。
あくまで瞑想とプラナヤマと古来の一部のアーサナだけをヨーガだと捉えています。

私は仏教の一環としてヨーガに接していますが、祈りはひたすら仏陀に対するもので、ただそれだけです。

瞑想には、その向こう側には、神への崇拝が必ずあります。
神という言葉が日本人は苦手ですが、宇宙や自然の摂理と置き換えても良いと思います。
畏敬と崇拝の対象です。

その大きな太陽的な求心力がないと、瞑想も意味がないと思っています。

ですから、私は、それを抜きにしたマインドフルネスにも批判的です。

祈る、瞑想する。ということは、もし、ご利益があるとすれば、人生を生きていく中で、大きな判断をするときや、選択をするときに、自分の内なる声として、あるときは、理性的な判断とは真逆の声として正しい判断をもたらしたりするものだと思います。
そのような「神の声」を聴くための訓練と言ったらよいでしょうか。

しかし、それを求めて続けているのではないと思っています。

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