2018年3月7日水曜日

「変わる死生観」

先日、日本で、生命維持装置によって延命されるよりは、自然死を望むひとが急激に増えているという記事を目にしました。
その記事に触発されて、
たまたまチベット仏教の事を調べていたので、チベットにおける死生観の一側面を現していると言われる「鳥葬」についても調べてみました。
鳥葬は、チベットにおいては今なお行われている遺体の処理方法です。
遺体をナタで切り刻んでハゲワシに食べさせる遺体処理方法です。
実はチベット仏教においては遺体はただの抜け殻です。
これはインドにおいても同じ考え方です。
ヒンドゥー教でも仏教でも同じです。
ですから、インドには、イスラム教徒を除いて、お墓がありません。

魂が抜けた物体は、ゴミ同然。
その考え方は諸行無常の仏教の死生観そのものだと思います。
その点、日本の仏教的考え方、遺体を仏様と言って拝むような考え方は異質だと思います。

以前から興味があって、鳥葬の写真を数多く見てきた私は慣れていて平気ですが、所謂文明国の方たちには、ショッキングなビジュアルなので、ここでは省略しますが、実は、死生観の反映であると考えられていた鳥葬が、そうではなかったと知ることができました。
海がないチベットにおいて、遺体の処理方法としては、土葬、火葬がありますが、土葬は、墓地から地下水脈や川に流れる汚水が疫病の原因になっていたそうです。これは、私が仕事で行ったイングランドやオーストリアでも同じした。そういう話を聞くことができました。
多くの人が亡くなり、
19世紀まで問題になっていたそうです。
だから、チベットでも、土葬は生きている人の安全面からも中止された。

火葬ですが、チベットは高地にあって、森林がほとんどない。

ということは木材は貴重品。だから火葬に使われる薪はなかなか入手できない。
薪を使って火葬されるのは、高僧に限られていたとか。

だから、残されたのは「鳥葬」なんだそうです。

ただ、イヌイットの社会で、長生きしすぎて、家族の負担になった老人が、進んでシロクマのエサになったのと同様、鳥葬も、生前、動物の命を頂戴して生きていた人が、その骸を動物に捧げるという意味もあるそうです。

そういう意味では、最近まで文明国で行われていた水葬もそれに近いものがあると思います。

水葬では遺体は魚のエサになる。

私は、遺骸は魂の抜け殻、ただの物体だと思います。

その最も有用な活用方法は、鳥葬や水葬で、動物のエサになり、彼らの生命維持に貢献することだと思うようになりました。

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